−−バンドは大学時代も続けたんですか。
森田:やってましたね。大学受験は推薦だったんで、面接と簡単な試験があって上京したんですが、次の日受験だっていうのにまず下北沢にある「五番街」というレコードショップに行きました(笑)。東京でいちばん行きたかった場所なんですよ。のちに「フジヤマ(三軒茶屋のインディーズレコードショップ)」を作った渡辺正さんがやっていたお店なんですが、アンダーグラウンドのシーンにとても通じてた方で、いつもこのお店の通販を利用してたんです。そこに行けばなんでも置いてあるっていう憧れのお店だったんです。ためていたお金で通販で手に入れられなかったレコードを何枚か買って…高校生でお金がないから、アルバム1枚買うのにすごい勇気がいりますよ。お年玉ためて初めて3〜4枚買えるんです。さんざんどれにしようか悩んでほとんどジャケ買いです。情報なんてないから、名前とジャケで、ハードそうだからコレ買おう、とか(笑)。
−−そういうセンスが鍛えられますよね。
森田:鍛えられましたね、圧倒的に。それに当時のハードコアなんて日本盤は絶対出てませんから、ほんとに少ない情報の中で集めて聞いて…大学に入って上京してからは…どっぷりでしたね(笑)。大学でもバンドを組んでやってました。当時は僕もオリジナルの曲を始めてライブ活動をやったり、ツバキハウスのロンドンナイトに出入りしたり、とりあえず見たかったパンクのライブハウスに通い詰めました。ライブハウスに行くとコワイ人達がいっぱいいるんですよ。喧嘩なんてしょっちゅうだし、こっちも気合い入れて髪の毛立てたりモヒカンにしたり、錨やチェーンをつけていかないとやられるんですよ(笑)。
−−やられるんですか?(笑)。
森田:やられるっていうか、狙われるんです。ちゃんとした格好でいくと認めてもらえるというか、仲間だと思ってくれるんですが、中途半端だと狙われる、っていう世界だったんですよ。
−−それはいつごろですか。
森田:大学入った頃ですから、84年とかですね。そういうところにはいろんな人がいるんですよ。この人は普段何やって生きてるんだろう?っていうような、人種の人がいっぱいいるんです。女の人でも破れたストッキングをはいて、スージー&バンシーズのスージーみたいな格好した人とか、ニナ・ハーゲンみたいな人とか、すごい人達がいっぱいいるんですよ(笑)。そういう人達を間近で見るということにワクワクしてましたね(笑)。怖いんだけど、見たい(笑)。ライブを見るだけじゃなくて、そういう人達を見たり、どのバンドがカッコイイとか情報交換したり、テープを交換してもらったり、教えてもらったバンドをまた見に行ったり…そういう交流が面白くて、行きまくってましたね。ほんとにどっぷり浸かってました。
−−東京でのロック生活を謳歌してたんですね(笑)。バンドは順調だったんですか。
森田:ええ、それなりにお客さんもついてたし、オーディションとか出たこともあるんですが、自分でプロになろうとは思ってませんでした。何故かというと、まだ日本のロックは認められてない、ロックがビジネスになっていない現状だったんです。BOOWYとかも全然ブレイクしてなかったし。83〜84年当時はカッコイイバンドがたくさんあって、のちにその人たちがインディーズブームの大きな流れになっていったんです。
−−じゃあプロのミュージシャンを目指していたわけではないんですね。
森田:そもそもどうして僕が音楽業界を目指したかっていう話になるんですが…僕は小さいときの思いのまま水産学部に行って、研究や実験ですごく忙しくてバイトもろくにできないような生活でした。2年から4年は水産学部の研究室が岩手にあったので、ずっと岩手にいたんですよ。バンドはサークルのメンバーとやっていたので、他の学部のメンバーは東京にいて。だから毎月のライブのために僕は岩手から帰ってきてたんです(笑)。お金がないから15〜6時間かけて車で(笑)。
−−それもパンクですね〜(笑)。
森田:ライブがせめてもの表現の場だったんですよね。学校はきちっと行ってたし、お金も出してもらってたからサボったりするのは嫌で授業はちゃんと出てたんですよ。
−−ちゃんと授業受けてたんですか。真面目ですね。
森田:そうです。音楽サークルだったから学校に練習場があるんですよ。だから授業の合間とか、休講のときはとにかく練習してましたね。ひたすらバンドばっかりやっていて、曲も作ってましたし。そのころから自分たちのバンドのヴィジュアルとかイメージを考えるのが好きだったんですよ。服も高いから買えないし、あんまり売ってなかったから、ほとんど自分で作ってました(笑)。
−−作ってたんですか?
森田:そうです。原宿プラザ(現在のGAPの場所にあった)で錨買って、東急ハンズで皮を買ってきてジャケットを作ったり、ブーツも安全靴を加工して作ったり、Tシャツのデザインも自分たちでペインティングしたり。音楽が基盤にありながら、ビジュアルや映画音楽、ロックムービー的なものにすごく影響を受けていて、音楽から発するいろんなものに興味があったんですね。二十歳の時そろそろ進路を考える時期になって「日本のロックでこれだけカッコイイバンドがたくさんあるのに、ロックがビジネスになっていないのは音楽業界にロックがわかってるヤツがいないんじゃないか」と思ったんです(笑)。生意気にね。だから俺はスタッフになろうと思ったんです。そういういいアーティストやカッコイイバンドを世の中に出せるようにしようって。
−−志が芽ばえてしまったんですね。
森田:自分でバンドもやってはいましたけど、「Don't trust over 30」っていう言葉どおり、30過ぎても自分がロックやって歌ってる姿っていうのは想像できなかったんです。でも裏方としてなら一生やっていけるんじゃないか、自分が表現者として、ボーカリストとしてやっていくよりはスタッフとしてやりたいっていう気持ちが芽ばえたんです。当時はレコード会社に入りたいのか、プロデューサーになりたいのかジャケットを作りたいのかコンサートをやりたいのか、それらが細分化された職業であるという認識さえもなかったけど、とにかく音楽業界に入りたいと思ったんです。マスコミ読本とか調べても音楽業界の事なんてほとんど載ってないし、
−−「Musicman」もないし(笑)。
森田:そうなんですよ。ほんとに情報がなくて、大学の教授に相談してもわかるわけがなく(笑)。そういう大学だから誰も音楽業界に入った人はいないんです。教授には「俺にはどうにもできないが大丈夫か」って言われて(笑)。「平気です、自分で調べますから」って言いましたけどね。 そのころの日本のロックでも衝撃的だったり気になっていたことはいくつかありました。吉川晃司さんのセカンドアルバムでアンダーグラウンドのミュージシャンが使われていたんですよ。布袋(寅泰)さんとか、のちのパーソンズの渡辺(貢)さんとか、そういうミュージシャンが参加してたんです。僕はBOOWYの布袋さんよりもAUTO-MODの布袋さんていうイメージがあって、パンク・ニューウェーブの流れをくむカッコイイギタリストだなと思っていたんですよ。吉川さんのアルバムを見て、「あれ?(すごいメンツだな〜)」って思ってたんですよ。
−−学生の時からそういうところに目を付けていらしたんですね。
森田:それから当時ナベプロでノンストップ・レーベルをやっていましたよね。ノンストップ・レーベルは言葉を大事にした音楽がけっこう多くて好きなレーベルでした。いろんな方がいらっしゃって…ノンストップのレコードを見るといつも木崎賢治さん(現・(株)ブリッジ代表取締役)の名前があるんですよ。その「プロデューサー・木崎賢治」という名前がとても気になっていたんです。木崎さんは日本の本当の意味でのプロデューサーの最初だと思うんですよ。それでノンストップ・レーベルをやってるナベプロに興味を持っちゃったんです。
−−木崎さんも当時はナベプロの方でしたよね。レコード会社ではなくて、そういうプロデューサーに目を付けるところが鋭いですね。
森田:もちろんレコード会社のディレクターとかも考えてはいましたよ。でも僕は木崎さんの仕事の仕方に興味を持ってしまったんですよ。吉川晃司さんのアルバム参加ミュージシャンもそうだし、コンサートでも吉川さんがBOOWYと一緒にやったコンサートがあるんですよ。そういう風にナベプロがメジャーとアンダーグラウンドの橋渡しをやり始めていて「こういうこともメジャーでできるんだ」って思って…大きなプロダクションとしてマネージメントもしながらトータルでプロデュースできて、しかもメジャーなのにカッティングエッジなこともできる。俺はここに行くんだ!って思いこんだんです(笑)。
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