森田和幸氏 リレーロゴ BACK NUMBER
森田和幸氏
 今回の「Musicman'sリレー」は、昨年9月にロードランナー・ジャパン(株)の代表取締役CEOに就任した森田和幸氏です。織田裕二のマネージャーとして下積み時代から大ブレイクまでを見守り、その後ディレクターに転身。クラブミュージックシーン世代のヒットディレクターとしてTHE BIG BAND!!やsugar soulなどを手掛けてきた森田氏。次なる活躍のステージとしてレーベル運営に乗り出した森田氏の目標とは?
[2003年10月16日/渋谷・ロードランナー・ジャパン(株)にて]
プロフィール
森田和幸(もりた・かずゆき) ロードランナー・ジャパン株式会社 代表取締役 CEO

1965年9月16日 兵庫県生まれ。
1988年 北里大学水産学部卒業後、(株)ビー・エー・シー入社。織田裕二のマネージャー及び原盤ディレクターを担当。
1991年 (株)ワーナーミュージック・ジャパン入社。邦楽制作ディレクターとして多くのプロデュース作品を手掛ける。
1996年 HIP HOP、R&B専門レーベル“FLAVA records”を設立。
1997年 ワーナー退社後、(有)ボーダー・グランドを設立。「踊る大捜査線」等ドラマ、映画の音楽プロデュースをはじめ、高橋克典、THE BIG BAND!!、Sugar Soulなど多彩なプロデュース活動を展開。
2000年 韓国アーティストの専門レーベル“NUKES”を設立し、日韓の音楽シーンの交流につとめる。
2003年9月 ロードランナー・ジャパン(株) 代表取締役CEO就任。
<RoadRunner Japan> http://www.roadrunnerrecords.co.jp

INDEX

ヤンキー全盛時代にパンクを追求していた青春時代
音楽生活を謳歌した大学時代
  ロックの地位向上を目指してスタッフを志す

ナベプロに入りたい!熱意が通じて…
織田裕二との出会い〜共に苦労した下積み時代
ドラマと歌が同時にヒット!
  織田裕二の大ブレイク、松本晃彦との出会い

初めは失敗続きのディレクター修行 〜ワーナーで学んだこと
FLAVA RECORDSの成功、そしてワーナーからの独立
世界で通用するミュージックマンになりたい
 〜アメリカで出会ったKOREAN MUSICの衝撃

単身渡米で得た価値観
 〜世界を目指すならアジアのトップを目指せ!

ロードランナーでの挑戦
世代交代の先陣を切って〜パンクスあがりのCEOがめざすもの〜

 今回の「Musicman'sリレー」は、NWP後藤氏のご紹介でロードランナー・ジャパン(株)の代表取締役CEO、森田和幸氏が登場します。パンクに影響を受け、自分の好きな音楽をもっと広めるためにスタッフを志した森田少年が就職のためにとった行動とは?30代でレコードメーカーのトップに上りつめた森田氏の波瀾万丈な人生、まずは前編をお楽しみ下さい。

森田和幸氏 ヤンキー全盛時代にパンクを追求していた青春時代

−−NWP後藤さんからのご紹介ですが、どういうお知り合いですか。

森田: 後藤さんとはもう7〜8年前になるかと思うんですけど、きっかけは僕がワーナーにいたときに、THE BIG BAND!!(DRAGON、いしだ壱成、武田真治らが参加)を紹介してくれたのが後藤さんだったんです。僕はロック、彼はクラブミュージック出身でずっと来ていて、それまでたどってきた流れやお互いの個性はまったく違うんですけど、目指すものは同じだったんですよ。後藤さんとは世代も近いし、僕もクラブミュージックはずっと聴いていたので、やってきた背景がお互い違っても、自分たちのジェネレーションで次の日本の音楽シーンとしてなにかを起こしたいっていう思いはずっとありましたから。

−−それで意気投合なさったんですね。では後藤さんとのお話は追々伺うとして…兵庫県のご出身と言うことですが、兵庫県のどこですか。

森田: 加古川市です。姫路と神戸のあいだぐらいで、明石は隣町ですね。高校生まで地元にいて、大学で東京に出てきました。

−−子ども時代はどんな少年だったんですか。なにかエピソードがあれば。

森田:海が近くてよく遊びに行っていたせいかもしれないんですが、僕は小さいときから生き物にすごい興味があったんですよ。いつも須磨海水浴場や須磨水族館、姫路の動物園とかで遊んだりしていて、海や動物が好きでしたね。そういう意味ではまったく音楽的な生活ではなかったです。親も音楽的な人じゃないかったし。親父は観光バスの運転手だったんですが、新幹線とか飛行機がまだ高くて、観光のメインは観光バスという時代だったので、ほとんど家にいませんでした。3日とか4日とか家を空けて戻ってくるっていう家だったので、母親が育ててくれたようなものですね。 ただ親父はいろんなコレクターで、なにか思い立ってはいろんなものを集めてたんですよ。コインとか切手、レコードとか…だからうちには当時の映画スターが出してるレコードがけっこうあったんです。赤城圭一郎とか小林旭、石原裕次郎とかね。そういうのを見たり聞いたりするのは好きでしたね。それは少し影響を受けてるかも知れません。単純にジャケは面白いし、「嵐を呼ぶ男」とかカッコイイじゃないですか。ポップスとかロックは全然なかったんですけど(笑)。

−−典型的な日本の家庭のお子さんですね(笑)。

森田:そうですね。それで高校までは普通に進学して、進学校だったんですけど、大学を選ぶときに一か八か推薦をお願いして北里の水産学部を受けたんです。僕の高校から北里に入った人はそれまでいなかったんですけどね。魚の研究をして自分の好きなことを仕事にしたいと思ったんです。

−−ちゃんとした志望理由があって水産学部を受けたんですね。養殖とかを学びたかったんですか。

森田:養殖と言うより研究をしたかったんです。親父がバスの運転手だったこともあって、サラリーマンじゃなかったし、スーツ姿で仕事に行くっていう考えがうちの家庭にはなかったんですよ。スーツを着なくていい仕事で、サラリーマンじゃなくて、好きなことを仕事にしたいという思いがあって…魚の研究者になって、できれば水族館の研究員になるか、どこかの研究所で働きたいと思っていたんです。それでラッキーにも北里に推薦でなんとか通ってしまったんです。

−−推薦がとおるということは成績優秀だったんですね。

森田:成績というより、委員長とかキャプテンとか、野球が強い高校だったんで、私設応援団の団長とか、そういうのをいろいろやってたんで推薦がとおったんでしょうね。

−−部活はなにをなさってたんですか。

森田:バドミントンです。ほんとはバレー部に入りたかったんですけど、バレー部では背が高い人ばっかり重宝されますよね。中学の時にバレー部に入ったんですけどそれが嫌ですぐやめちゃって、身長が関係ないスポーツをやりたくて、高校までずっとバドミントンをやってたんですよ。県の強化選手でけっこう強かったんですよ。

−−リーダーシップをいろいろ発揮されてたんですね。

森田:結果的にそうだったんでしょうね。自分ですすんでやりたがったわけではないんですけど、周りからなんとなく頼られて…うちの両親は自主性を重んじてくれていたんで、そういう育て方をされた影響もあるかも知れません。僕がいつも勝手に自分の進路を決めてしまうんで怒られたりはしましたけど、結果的にそれを認めてくれましたし、自分でものごとを考えるっていうことが、早い時期から身に付いていたんでしょうね。

−−いいご両親ですね。

森田:音楽的な面では何も影響は受けてないですけどね(笑)。

−−思春期で最初にはまった音楽はどのへんだったんですか。

森田:日本の音楽で初めて衝撃を受けたのは…頭脳警察かなぁ。当時はエアチェックが唯一の音楽情報源でしたから、NHK-FM「渋谷陽一のサウンド・ストリート」をよく聞いていて…、(大貫)憲章さんもラジオやられてたと思います。そういう番組でピストルズやクラッシュがかかって、それでまず一番衝撃を受けました。海外の特にUKのパンク、ニューウェーブを聞くようになって…平行して日本のパンクにもはまっちゃったんです。頭脳警察や町田町蔵のINU、アナーキーがクラッシュのカバーやってたり、めんたいロックのTHE MODS、ルースターズやロッカーズとかが出てきて…究極はスターリンとかになっちゃうんですけど(笑)、そうやってどっぷりパンクにはまっちゃったんです。そんなのを聞いてるのは友達の中に誰もいませんでした(笑)。

−−最初からそのへんにひっかかるというのはとてもセンスがいいというか、始めから本物のロックをわかっていたんですね。

森田:偶然ラジオからリアルタイムで聞いた音楽にのめり込んで…英語がわからないぶん、ビジュアルからまず入って、なんだこれは!と思って、サウンドもかっこよくて……頭脳警察なんかは音楽性よりも言葉のほうが影響を受けましたね。セカンドアルバムとか発禁になったりしてたじゃないですか。ああいうメッセージ性のあるものにすごい惹かれてたんです。、子どもながらにそういう社会性のようなものに惹かれていて、政治とか労働組合に興味持ってたり…親父は学生運動とかに入っちゃうんじゃないかって心配してましたね(笑)。

−−ほんとにヤンキーとは180度違う学生だったんですね。

森田:キャロルとか矢沢とかがヒーローで、男はみんなツッパリ、ヤンキーに行くって言うのが自然な流れで…身近にやくざの組とかもある地域なんで、背中に入れ墨しょったおじさんが体操してたり…普通でしたからね。友達はヤンキーばっかりでしたけどね(笑)。

−−でも地元のヤンキー友達とはちゃんと遊べてたんですね。

森田:全然大丈夫です。ただみんな周りはリーゼントで、僕はパンクなのでひとりで髪の毛立ててましたね(笑)。

−−ちゃんとパンクロッカーの格好もしてたんですね(笑)。

森田:もうバリバリですよ(笑)。僕はヤンキーのファッションが嫌いだったんです(笑)。婦人物のサンダルを履くとか(笑)、学生服は長い学ランで太いズボンをはいて、内側に刺繍を入れたり…ファッション的にもノーだったんでですよね(笑)。高校時代の同級生で唯一音楽の趣味を理解してくれた友達がいたんですけど、その子の親がパタンナーをやっていて、僕は特注で裏地を他とは違うファッショナブルな感じにしてもらったりしてましたよ(笑)。彼女は最終的にデザイナーの道に進みましたけどね。音楽的な理解もあって、RCサクセションとかが好きで、日本のロックにそこから入って…僕らは典型的なパンク・ニューウェーブの時代だったんですが、とにかく情報がないんですよね。

−−地方は特に情報がないでしょうね。

森田:そうなんですよ。「ミュージックマガジン」とかでもほとんどパンクやニューウェーブは扱わない時代で、唯一の情報源は「DOLL」でした。しかも本屋にはおいてないから通販で郵便為替で購読してましたよ。

−−熱心な読者だったんですね。

森田:神戸に1軒だけ「ウッドストック」という店があって、そこには唯一パンク系の雑誌とかおいてありましたけど…

−−すごいマイナーな時代ですよね。

森田:パンクのコーナーなんてほとんどない時代ですよね。「DOLL」と「宝島」の自主制作コーナーが唯一日本のマニアックなものを扱ってるコーナーで…宝島がまだA5判だったころですよ。そういう少ない情報の中でパンク・ニューウェーブを聞いていて、高校生の時にイギリスのUKハードコアのムーブメントが始まったんですよ。1982年ごろかな。それはリアルタイムでガツンと来ましたね。いちばんいろんなものに興味を持ってるときだから。音楽やファッションだけでなくてメッセージも基本的に反体制、反戦や暴力に対するメッセージも響いたし…日本でもそういうUKハードコアに影響を受けたバンドがどんどん出てきたんですよ。「インディーズ」という呼び方もなくて「自主制作盤」でしたけど、ラフィンノーズとか東京ではギズムとかガーゼとか、「DOLL」が作っていたレーベルからいろんなハードコアが紹介され始めて…それで相当やられましたね。 うちには当時の「DOLL」とか捨てられずに全部ありますし、自主制作で作られた日本のパンク、ハードコアのテープとかソノシート、ほとんど持ってると思いますよ。今じゃ何万円もするようなものをね。生き字引状態で、本を書けといわれたら書けるくらいですね(笑)。ほとんどがソノシートかドーナツ盤でアルバム単位で出るものはほとんどなくて、出ても不定期で通販も平気で遅れるし、わざわざ大阪まで買いに行ったたこともありました。あとは「DOLL」の交換コーナーでライブテープを交換してもらって音源を収集したり…

−−マニアックだなぁ(笑)。

森田:ライブ盤とかありませんから、噂が噂を呼んで、そういうライブテープを入手したり交換したりしてましたよ。

−−バンドはやってなかったんですか。

森田:高校生になってからバンドもやりました。ただ部活をちゃんとやってたんで、バンドは部活を引退してからやってましたね。スラッシュとかデスメタル聞いてる友達とハードコアで共通点が少しあったんで…コピーバンドみたいなのを始めたのが最初ですね。

−−担当は何だったんですか。

森田:実は歌をやっていたんですよ(笑)。

−−おお〜(笑)。

森田:ほんとにただ暴れてるだけでしたけどね(笑)。スタイル的なことも憧れがあったし…とにかく少ない情報を自分で収集しながら、想像力をふくらませてましたね。

BACK
←第38回 後藤貴之氏
NEXT

Copyright(C) 1998- F.B.Communications Inc. & Magnet Co.,Ltd. All rights reserved.
Contact info@musicman-net.com with question regarding this site.