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後藤貴之氏 大成功だった山本リンダさんの復活

−−卒業後は「WORLD MANSION PROJECT」を立ち上げるわけですね。これは会社ですか?

後藤:いえ、まだ会社ではなかったですね。個人でした。大学時代からクラブイベントをやってたんで、ニューヨークとかも3年生ぐらいから行くようになったんですよ。

−−仕事で?

後藤:いえ、仕事も兼ねてというか、行くために仕事もらってましたね。あるクラブからお金もらってニューヨーク行って、リサーチして報告書をあげて、みたいなことはやってましたね。ニューヨークに行ったらすごくクラブシーンが盛り上がってたんで、そこにはすごくインスパイアされましたね。向こうではヒット・チャートにもクラブミュージックがすごくリンクしていましたけど、日本のシーンは皆無だったんで…。

−−ということで、クラブイベント、クラブミュージックを仕事にしようと「WORLD MANSION PROJECT」を始めたんですか。

後藤:そうですね。青年芸術家協会のときも絵を描いてるヤツやパフォーマーとかいろいろいたんで、彼らにイベントに出てもらいつつ、DJを入れて。それも最初はトミイエとか中心でしたね。

−−そのころはDJはやってなかったんですか。

後藤:しゃべることにはもう興味はなかったですね。

−−回す方は?

後藤:回す方も…興味なかったですね。

−−そういう自分でやろうって興味は薄れてたんですね。

後藤:仕掛ける方が面白くなってきたんですよ。人を集めたり楽しませたりする方が面白くて。

−−「WORLD MANSION PROJECT」をたちあげて、2年間はイベントを打ちまくったわけですね。

後藤:そうですね。本当は卒業するときにお店を出してる予定だったんですよ。ちょうどバブルで友達の叔父さんに30社くらい持ってる会長さんがいて、別荘とか遊びに行かせてもらったりしてたんですけど、その人が押さえてる表参道の大きい一軒家でお店をやろうって事になっていて、会社もそのためにつくる予定だったんです。その場所を改装する前に身内だけのパーティもやって、さあ改装っていうところで、会長から電話があって、「申し訳ないけどあの物件売れちゃったから、君には貸せないんだ」って(笑)。4月くらいの話ですよ。それでしょうがなくまたイベントをやったりするようになったんです。

−−そこはクラブっぽいお店にする予定だったんですか。

後藤:そうですね、クラブだけじゃなくて映像とか音楽とかファッションとか学生時代からいろいろイベントやっていたので、そういう総合的なカルチャーが集まるようなレストランバーにしようと思ってました。

−−それは結果として今ふりかえると実現しなくてよかったんでしょうか。

後藤:どうなんでしょうね。あったらあったで…失敗したかもしれないですけどね。

−−それから…「山本リンダ復活イベント」は有名ですよね。このへんからプロデューサーとしてどんどん活躍されていくわけですよね。

後藤:WORLD MANSIONというパーティをやりながら、CLUB DIAMONDSというイベントを始めまして…それはミュージシャンがDJをやるというコンセプトのイベントだったんですよ。そういうイベントは当時は全くなかったんで。だんだん人気が出てきたスカパラとか、東京パノラママンボボーイズにはDJだけじゃなくてライブもちょっとやってもらったりして。DJじゃない人がやると、客層も多少違いながら面白かったんですよ。2回目をやるときにはもっとライブもやりたいなと思ってたんです。
その頃に大貫憲章さんがよくDJでフィンガー5とか山本リンダさんの曲をかけていて。大貫さんは大学の大先輩なんですけど。僕もフィンガー5とか山本リンダさんとか子どもの頃ファンだったんですよ。それでいつものクセで「山本リンダさんに会いたい」と思いまして(笑)。世の中会えない人はいないと思ってたんですね(笑)。それでリンダさんを捜し始めまして(笑)。

−−捜さないとわからなかったんですよね。

後藤:そうなんですよ。当時は情報がゼロだったんで。いろいろ捜していって、(制作会社の)ハンズの方に教えてもらいました。今の新宿リキッドルームがある場所は、昔はグランドキャバレーだったんですけど、リンダさんはそこで歌ってたんです。そこに交渉に行きまして、「『CLUB DIAMONDS』というイベントをやっているんですけど、出ていただけませんか」って。

−−すぐにオッケーしてくれたんですか。

後藤:結局は快諾していただいたんですが、最初は躊躇していたみたいです。「私が若者に受けるはずがない」って思いこんでるようでしたね。でもクラブに行けば憲章さんとか日本語の曲をかける人はみんなかけてましたし、もりあがるんですよ。だから絶対にウケると思ってたんで、そういった状況を説明して説得しました。また、ちょうどそのころはテイ・トウワ君のDEEE LITEがニューヨークでものすごく流行っていて、クラブシーンのサイケデリックなブームが来ていたんですよ。リンダさんもちょっとサイケデリックなイメージがありましたよね。だからそれを合致させたら絶対面白いものになるなと思って説得しました。
浅川君のMORE DEEPでヴォーギングも流行り始めてたので、MORE DEEPにリンダさんの振り付けとバックダンサーをやってもらったんです。本当はその年、90年の12月にサイカっていう汐留にあったクラブでやるつもりだったんですけど、サイカが不渡り出してつぶれちゃったんで、翌年3月にクラブチッタ川崎でやりました。

−−このイベントは大当たりでしたよね。

後藤:当たりましたね。すごいメンツが出てくれたんですよ。「リンダさんが出るなら」って。当時まだブレイクはしてなかった電気グルーヴとか大貫憲章さん、スカパラ…たくさんの方に出ていただいて。クラブイベントにダフ屋が出るっていうのはそれまでなかったでしょうね。
それがきっかけでリンダさんのプロデュースをやることになって、その後1年ぐらいやっていましたね。マスコミもたくさん来ましたけど、最初のイベントは一般マスコミは全部シャットアウトして、音楽系、ファッション系の雑誌のみの取材を入れたんです。ファッションのほうもラグタイムカウボーイズっていう有名なインディーズ・ブランドがあって、リンダさんのファッションを担当して頂いて、音楽はハウスで…リンダさんには5回くらい出演して頂いたと思いますね。

−−ファッション・ブランドと組むとかそういう仕掛けはすべて後藤さんがやられたわけですよね。そのころはもう会社は立ち上げられてたんですか。

後藤:そうですね。リンダさん復活イベントをやった時点で、各レコードメーカーから「山本リンダさんのCDを出したい」って手が上がって、その窓口も僕がやってたんです。でも僕はリンダさんのほかにハウスのコンピレーションもやりたくて、両方やってくれるところを捜してたんです。それでソニーさんとやることになって。担当の人も最初は「クラブと言えばお姉ちゃんのいる所、ハウスと言えば家」みたいな感じだったんですけど(笑)、担当のディレクターも一生懸命勉強してきてくれて、それでやることになったんです。「TOKYO HOUSE UNDERGROUND 1」というコンピレーションを作り始めて、うちの第一弾アーティストと、MORE DEEPも入ってました。

−−第一弾アーティストというのはどなたですか。

後藤:SUBSONIC FACTORというユニットです。ヴォーカルがハーフの女の子、ラッパーが黒人、キーボードが日本人という3人ユニットです。ほぼ全曲英語でした。キーボードの日本人は後のFavorite Blueや今のMOVEの木村貴志君です。それでソニーと契約するのにやっぱり法人じゃなくちゃだめで、それで正式に会社にしました。

−−その後はアーティストを中心としたイベント・プロデューサーになっていくわけですよね。

後藤:基本はそうですね。

−−ひとつひとつ語っていただくと大変なことになるんですが(笑)、この10年間はひたすらイベントやアーティストのプロデュースを手掛けてこられたわけですよね。今はどれくらいの人数のアーティストがいらっしゃるんですか。

後藤:うちの所属は…sugar soul、orange pekoe、RYO the SKYWALKER、beret、HIKARI、森田昌典、それと新人が1組いるんで、7組ですね。

−−プロダクションの社長さんとしては、それは自然に知りあった人達をプロデュースというかマネージメントしているんですか。

後藤:いや、オーディションが半分、紹介が半分みたいな感じですね。やる・やらないは直感ですね。コイツはいいな、と思ったらデモテープを聞きながらその場で電話するんで、相手は驚くみたいですね。昨日とか一昨日出したデモテープで、もう電話が来るなんて思ってもいないみたいで。orange pekoeとかberetとかはそのパターンでうちに所属してます。そういうアーティストはあとからいろいろ連絡もらうみたいなんですけど「最初に連絡くれたのが後藤さんでした」って言ってくれます(笑)。いつも直感でしかないんですけど。

−−でもその勘はあたってるわけですよね。

後藤:まあ幸いなことに今の所そうですね。

−−これだけの経歴をお持ちだと「それはどこで身につけたんだろう」って考えてもわからないですね、(笑)。

後藤:わかりませんね(笑)。

−−でもいろんなクラブイベントとかやっていろんなものを聞いてるうちに、なんとなく「コレだな」って思うようになったんでしょうね。

後藤:そうですね、いろんな人と会って話したり、クラブで色々な音を聞いたり、流れみたいなものを考えたり。

−−今の音楽業界ではその勘がハズレちゃって大変なことになってる人がたくさんいるわけでしょう。そのなかで、当たっているって事は、やっぱり特別な才能なんじゃないですか。

後藤:まあでも僕も、浅川君も、あと以前うちにいた谷川君(谷川寛人氏:現リズメディアグループ代表)もそうだと思いますけど、クラブミュージックがまったく認知されていなかったときから始めていて、クラブシーンのなかからオリコンチャートに入る音楽を作りたいっていう目標はありましたからね。日本の音楽シーンの中から海外に聞かせても引けを取らない音を、って考えてましたし。今もそれに近い、あまり変わらないことをやっているつもりですけど。だから96年に、アメリカでは常にチャートのトップを飾っているR&Bを、日本語で出来ないかと思って、sugar soulを作りました。最初は3人組のユニットだったんです。sugar soulは当初クラブシーンではすぐに人気が出たんですが、谷川君のMISIAが直後にデビューして、あっという間にメジャーで全国制覇しちゃいましたからね。我々にも出来るんだっていう自信がつきましたね。
以前、バンドブームがあって、今またロックが流行ってますよね。でも僕にはロックはできないんですよ。今はクラブのシーンがちょうど我々の流れの中にあるっていうだけで、たとえば3年後はどうなってるかわからないじゃないですか。もしかしたら3年後には僕も違う方向を向いているのかもしれないですし。

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