−−高校時代は放送局のようなことをやったりDJやったりして、大学は立教ですよね。立教を選んだのには何か理由があるんですか。
後藤:いえ、特にないです。浪人するぐらいなら東京に出ちゃえというだけですね。進学校だったんで、どこかに受かっててももっと上をめざして浪人する人が多かったんですが、僕はとにかく早く東京に行きたかったんですよ。
−−それで現役で立教に入られたんですね。85年というと、ほんとうにバブルの絶頂期ですね。後藤さんは大学時代にいろんな団体で活躍されていたそうですが、プロフィール見るとすごいですねぇ。まずは「M2 PLANNING」、モデルの人材派遣を立ちげたというのは、どういうものですか。
後藤:高校のときに駿台の夏期講習に通ってたんですよ。夏休みに3週間くらい、東京に滞在して講習受けてたんです。1年生の時は行ったり来たりでしたけど、2、3年の時は1ヶ月くらいいたかな?まあ遊びに行っていたようなもんで講義なんて全然受けてなかったですけど(笑)。そのときに予備校で知りあった連中と、何かやろうよってことで巻き込んで作ったのが「M2 PLANNING」ですね。入学式にはもう名刺持って配ってましたね(笑)。「私こういう者です」って。
−−すごい1年生ですね(笑)。学生っていうより、もう働いてる人みたいですね(笑)。
後藤:姉がひとりいるんですが、姉は国立大学で、授業料免除の特待生だったんです。ウチの実家もあんまりお金なかったのに僕は私立でお金がかかるんですよ。だからアルバイトだけじゃまかなえないところもあって…僕ももちろん奨学金もらって通ってましたから。
−−あんまり「苦学生」っていう感じはしませんけど(笑)。
後藤:苦学は…してなかったですね(笑)。
−−「Save Africa Students Planning」というのは何ですか。
後藤:通称SASPといって、「アフリカ難民救済学生組織」です。これは“LIVE AID”を見て感動して、さらに“USA FOR AFRICA”に触発されて、「これは俺もやらなくちゃいけない。学生としてもできるだけのことをやるべきだ」と思って始めたものですね。
−−ビジネスではなくて純粋に始めたものなんですね。
後藤:ええ、いたって真面目ですよ。ユニセフとかいろんな団体と交渉して、集まったお金も全部寄付しましたし。
−−具体的にどういう活動をされてたんですか。
後藤:イベントですね。最初にやったのは立教の学園祭でのトークイベントです。それまで11年ぐらいやってなかった学園祭が復活することになって、やるならメインイベントをやりたいと思って、ほかの連中に押さえられる前に立教出身の古館伊知郎さんに出演をお願いしたんです。当日は僕が司会をやって、古館伊知郎さん、泉麻人さん、中森明夫さん、千倉真理さんに出ていただきました。あと長島茂雄さん、徳光和夫さん、細野晴臣さんにも声をかけて、この方々からはメッセージをもらいました。
−−すごいメンツですね。
後藤:ちょうど新人類が流行ってるころで、泉さんや中森さんは一回お会いしたいなと思っていたんで。やっぱり大物OBの古館さんが出ることもあって、学園祭のメインイベントとして構内のいちばん大きい会場でやることになってたんですよ。パンフレットにも載っていたのに、開催2週間前に「SASP」はほかの大学の学生も参加している組織だって言うのが学校側にばれたんです。「そういうサークルにはうちの施設は貸せない」と言われまして…まあ当時の立教祭はチャペル団体と体育会が認めていないイベントで、正式な学園祭じゃなかったんですよ。復活1回目ですし、そういうこともあって厳しかったんでしょうね。いきなり学生部から呼びつけられまして。そこから大変でしたね。もうスケジュールは押さえてるし、やらないわけにはいきませんから、ほかの会場をいろいろあたって…結局サンシャインに貸していただくことになりました。結婚式に使うような場所を貸していただいて…駅の逆側なんですけどね。
−−サンシャインはタダで貸してくれたんですか。
後藤:タダです。イベント自体入場料もカンパ制にしてたんで、出演者の方々にもお車代だけで…すべてチャリティでやりました。「イベント」の「イ」の字も知らなかったのによくやりましたよね。
−−せっかくのイベントなのに会場が変わったりして大変でしたね。
後藤:そうなんですよ。最初はメインイベントのつもりでしたからね。お客さんは知らずに立教に来ちゃうんですよ。それでそこから看板出して誘導してサンシャインまで行ってもらって…歩くと20分くらいかかりますからね。あれはつらかったですね。
−−SASPはいつまで続けたんですか。
後藤:2年ぐらいは続けましたね。
−−ということは学園祭だけではなくて、ほかにもいろいろイベントをやられてたんですね。
後藤:そうですね。
−−さっきの「M2 PLANNING」は具体的にはどういう活動だったんですか。
後藤:あんまりたいした活動はしてないですよ。学内外でかわいい女の子に登録してもらって、読者モデルとかが出てる女性誌にモデルを紹介して手数料をもらってたんですよ。
−−スカウトマンも兼ねてたんですか。
後藤:僕だけじゃないですけどね。でもやってるうちにSASPに時間とられたり、個人的に続けてたDJが忙しくなったりしてだんだんこっちの活動は消えていきましたね。
−−そういえば大学では放送サークルには入らなかったんですか。
後藤:「Club DJ」というDJサークルに入ったんですけど、すぐクビになっちゃいました(笑)。
−−クビですか?どうして?
後藤:兼部が認められないサークルなんですよ。そのとき僕は「M2 PLANNING」とSASPと両方やっていて…パンフレット作りの時にばれまして。学園祭の時にね。Club DJも当然ブース出してやるわけですよ。それなのになぜ同じサークルの後藤が、パンフレットに(SASPで)1ページも使って出てるんだということで。会議にかけられまして、当時の部長に「後藤君が兼部をしていることが発覚したわけですが、後藤君には辞めてもらおうと思います。多数決をとります、賛成の人…」みたいな展開で(笑)。その当時の部長っていうのが、エイベックスの新崎さん(新崎英美氏:現エイベックス(株)執行役員)なんですよ(笑)。
−−あの新崎さんですか(笑)?僕もよく知ってますよ、そんなケチなこと言ってたんですねぇ(笑)。
後藤:まあ部の決まりでしたからね(笑)。
−−DJはどこでやっていたんですか。
後藤:Club DJをやめてからは個人でやってましたね。当時キディランドの前でホコ天があって、そこにブースがあってそこでレギュラーでDJやったり、池袋の大きい居酒屋にDJブースがあって、そこでしゃべったり。1年生の時はそんな感じでしたね。
−−Club DJに対抗して自分でサークルを作ってやろうとかそういうのはなかったんですか。
後藤:それはなかったですね。かわりに「東京学生放送連盟」を作ったんです。そうそう、西さんのインタビューのなかで、僕がプロデュース研究会だったと書いてありますが、僕は違うんですよ。
−−そうなんですか。それは失礼しました。
後藤:いえいえ、プロ研とはすごい仲良くさせていただいて、いつも行動は一緒にしていたんですけどね。
もともと僕が1年生の時に峰岸さん(峰岸真澄氏:現(株)リクルート執行役員、ゼクシィ発行人。当時のプロデュース研究会代表)たちの努力でが学園祭が復活することになって…峰岸さんはご存知なんですよね。
−−ええ、僕は昔から遊び仲間なんですよ。学祭を復活させたって武勇伝は何度も聞きました(笑)。
後藤:峰岸さんは3年生で学園祭実行委員長だったんですが、僕は1年生で、SASPで参加することになったので、それで知り合いました。そこで仲良くさせてもらって…僕は学生時代もあんまりどこかに所属していたことはなかったんですよ。自分でいろいろ作ってばっかりで…そういう意味では、峰岸さんは僕にとっては「先輩」っていう感じですね。直属ではないですけどね。
−−それで僕は後藤さんがプロ研だと思ってたんですよ。
後藤:今はリクルートで出世しちゃってすごいですよね。たまにageHaの件で相談にのってもらったりしますよ。我々だと社会人ネットワークにかける部分がありますから、そういう人達を動員するにはどうすればいいか、とか…。
だからプロ研を見ていてキャンパス・リーダーズ・ソサエティ(CLS)も楽しそうだなと思って参加したかったんですよ。でも僕はClub DJでもないし、何処にも属してなかった。そもそも当時はCLSのなかに放送系のものがなかったんですよ。学園祭実行委員会、プロデュース研究会、広告研究会、映画研究会、ミニコミ研究会の連盟があって…本来なら放送研究会も入るべきなのに、入ってなかったんです。放送系としてはビクターがやっていた「みみずく村」っていうのがあったんですけど、企業がやっていて純粋な学生団体ではなかったので、2年の時に各大学の放送研究会の人たちに声をかけて、「東京学生放送連盟」を作って、CLSに参加したんです。
−−「東京学生放送連盟」には何校くらい参加してたんですか。
後藤:いくつだったかなぁ。覚えてないですけど、12校くらいですかね。結局僕は何処にも所属してないんで、幹事はやらなかったんですけど、裏のスタッフというか…。
−−立教にはClub DJのほかに放送サークルはなかったんですか。
後藤:ほかに放送研究会というのがありましたけど、僕は入ってませんでした。
−−どこにも入ってなくても連盟設立できるんですね。
後藤:まあ、よくやれたなとは思いますけど(笑)。
−−無所属立候補ですね(笑)。こうやって経歴を拝見してると、とにかく自分で何かをやりたいというタイプなんですね。人が作ったものや伝統を受け継ぐというよりは、自分で作るのが好きだったんですね。生まれついてのプロデューサーって感じで(笑)。
後藤:確かに作るのが好きだったのかもしれませんね。
−−3年生のときには「日本青年芸術家協会」立ち上げですか?これはずいぶんカタイ名前ですね…なんかちょっと胡散臭い感じもしますが(笑)。
後藤:そうですよねぇ(笑)。名前は迷ったんですけどね。カタイ名前にしよう、ってことで…。
−−これはどういう団体なんですか。ごく真面目な?
後藤:真面目なイベントもやりましたよ。最初は渋谷のLa mamaでMTVと学生向けのカード会社の協賛でライブ・オーディションをやりました。
あと、敬老の日に日比谷公園で二日間「シルバーフェスティバル」っていうのがあって、イベントそのものをやっている代理店が個人レベルだったんですが、テーマが「若者との交流」だったんで、うちでプロデュースしました。
−−どんな方々が参加されてた団体なんですか。
後藤:そうですね…今ニューヨークで活躍してるDJのトミイエサトシとかも一緒にやってましたね。
−−ということは、名前の印象から受ける古典的なイメージではなくて、最先端の方々だったんですね。
後藤:ああ、そうですね。音楽やファッション系、アート系から専門学校から様々な人達とやっていました。クラブイベントもやったり。
−−大学時代の後半はこの団体が中心ですか。
後藤:あと2年生の時はディスコ・ブームもありましたね。今フロンティアっていう代理店やってる友達がいて、当時インターカレッジの大規模なディスコパーティをやっていて、それを一緒にやったりしてましたよ。でも僕はどうしてもディスコノリが苦手で、クラブミュージックのほうが好きでしたね。だからヒップホップのイベントとかやってました。 |