後藤貴之氏 リレーロゴ BACK NUMBER
後藤貴之氏
 今回の「Musicman's リレー」は、sugar soul、orange pekoeらを擁する(株)ニューワールドプロダクションズ代表取締役、後藤貴之氏の登場です。
 クラブミュージックをシーンのメインストリームに押し上げた立役者として知られる後藤氏ですが、学生時代から数々のイベントをプロデュースし、早くから企業家としても活躍。そのプロデューサー魂は高校時代に熱中したDJ番組まで遡ります。群馬のいち高校生が、東京のプロダクションに名を知られるようになった、驚きのその訳とは…!?
[2003年10月14日/渋谷・NWPにて]
プロフィール
後藤貴之(ごとう・たかゆき) 株式会社ニューワールドプロダクションズ 代表取締役

1966年12月11日 新潟県新潟市生まれ(〜4歳) 群馬県太田市育ち
1985年3月 群馬県立太田高校卒業
同年4月 立教大学文学部英米文学科入学「Club DJ」入部
同年「M2 PLANNING」(学生人材派遣業務)設立「Save Africa Students Planning」(アフリカ難民救済学生組織)結成
1986年 「東京学生放送連盟」(関東の放送系サークルの非営利連盟)設立  キャンパス・リーダーズ・ソサエティ参加
1987年「日本青年芸術家協会」設立 様々なイベントをプロデュース
1989年3月 立教大学卒業「WORLD MANSION PROJECT」設立 クラブイベントをプロデュース
1991年7月 (株)ニューワールドプロダクションズ設立
2000年4月 (有)ニューワールドレコーズ設立
2002年5月 (株)マザーエンタテイメント 取締役就任 (株)ゲートレコーズ 代表取締役副社長就任
<NEW WORLD PRODUCTIONS INC.> http://www.nwp.co.jp

INDEX
FM番組作りに熱中した中高時代
高校のお昼のラジオ番組にトップアイドルがゲスト出演!? 番組作りに明け暮れた高校時代
表向きは学生、本業はフリーのイベントプロデューサー!? 〜大活躍の大学時代
足りない生活費はプロデューサー業で補填!? 大学時代唯一のアルバイトは…
クラブシーンを盛り上げたい 〜大成功だった山本リンダさんの復活
様々な文化の発信地をめざして …GOLDの夢を託したSTUDIO COAST
基本はやっぱり「人」対「人」 …マネージメントの面白さ、スタッフのありがたさを痛感

後藤貴之氏 FM番組作りに熱中した中高時代

−−アーティマージュの浅川さんからのご紹介ですがどういったお知り合いですか。

後藤: 知りあってもう13年くらいですかね…もともとは彼がDJで新宿2丁目のブギー・ボーイで回してたときに僕はお客として行っていたので、そのときに同じ空間にはいたと思いますよ。ただ、僕はいつも酔っぱらってたのでよく覚えてないですね(笑)。ブギー・ボーイに行くときはたいていショットガンばっかり飲まされてたんで…だからちゃんと話をするようになったのは彼が南砂でお店(AMES)をやっているころですね。僕は大学を卒業してそのままクラブイベントのプロデュースをやっていて、西麻布で期間限定のクラブとかもやってたんです。それが、「20代の旗手たち」っていう企画で「日経トレンディ」誌に二人ともとりあげられて、それで青山のMIXってクラブに遊びに行ったときに、浅川君が「一緒に載ってたよね」って声かけてきてくれたんです。話してみると意外と共通の友達が多かったりして、そこから仲良くなりましたね。

−−それ以来公私ともに仲がいいということですね。

後藤: そうですね。まあ同じ年っていうこともありますし…よく「(同じ年には)見えない」って言われますけどね(笑)。知りあった当初から、同じ年には見えませんでしたからね(笑)。

−−ではまずご自身のことを伺います。プロフィールによるとご出身は、4歳まで新潟で、その後群馬県太田市、ということですが、太田市ってどのへんですか。

後藤:群馬のなかでも埼玉よりのほうです。「上毛かるた」では「つ:つる舞う形の群馬県」って言うんですけど(笑)、その鶴の首のあたりで、ほとんど埼玉との県境ですね。利根川の上が群馬県、下が埼玉県なんですけど、利根川まで自転車で15分くらいのところでした。高崎や前橋に行くよりも東京に出る方が近いんですよ。

−−高校卒業まで太田市にいらしたそうですが、子どもの頃はどんな少年だったんですか。

後藤:好奇心の塊のような変な少年だったと思います(笑)。…ただ、小学校の時に生徒会長をやっていて、中学も生徒会長でしたね。

−−成績優秀だったんですか。

後藤:どうなんでしょう。ふたつ上の姉が副会長をやっていて、そうなると、順当に弟もなっちゃうっていうか…なんかやたらと代表とか先生にやらされてた気はしますけど、まあ、単なる目立ちたがり屋だったんじゃないですかね。

−−当時からリーダーシップを発揮されてたんですね。

後藤:ちゃんと発揮できてたかどうかはわかりませんけどね。やたらそういう役回りをさせられて、人前によく出ていたとは思いますね。 中学2年生ぐらいのときなんですが、友達に金持ちの息子がいて、HAM無線をやってたんですよ。そしたら今度(電波を飛ばす)ブースターを買ったからなにかやろう、っていう話になって、それで番組を作って編集して、ミニFMみたいなのをやったんです。

−−中学生でですか?

後藤:そうです。当時はYMOが大好きだったんで、YMOばっかりかけてました。それでしゃべるほうのDJをはじめて…。

−−それって違法ではないんですか。

後藤:違法ではないですね。半径数百メートルっていう微弱な電波なんで。ただ、いくつか中継地点は設けていましたけど。

−−中学の時に「バンド小僧で」とか「ギターやってて」っていう話はよく聞きますけど「DJやってた」っていうのは新しいですね。ニューワールドですね(笑)。そういう時代だったんですね。

後藤:僕は逆に楽器はできないんですよ(笑)。どちらかというと、「スネークマンショー」を聴いて始めたというか…あれで小林克也さんの名前を知ったんです。FENもよく聴いていて、ケーシー・ケースンとか大好きで。ロスではFMブームだったんで、向こうのFMのテープを取り寄せたりしてました。

−−地方都市の中学生としてはすごく進んでるほうだったんじゃないですか。

後藤:まあやりたいことばっかりやってたとは言えるでしょうね。一応勉強もしなくちゃいけないけど親に隠れてそんなことばっかりやってたっていう(笑)。

−−ということは、そのころから洋楽をよく聴いていたってことですか。

後藤:トップ40ものばっかりですけどね。誰のファンとかじゃなくて、ほんとにヒットチャートが好きで…。

−−そのへんは浅川さんとも共通点ですね。「エアチェックしまくってた」って言ってましたから。

後藤:ああ、僕もエアチェックはしてましたね〜。高校時代は毎月「FM STATION」買ってチェックしてましたよ。

−−音楽に対する関わり方も、最初からアーティスト思考と言うよりもプロデューサー思考だったんですね。

後藤:そうかもしれないですね。

−−そのミニFMはどのぐらいやってたんですか。名前とかちゃんとつけてたんですか?

後藤:いやもう適当にやってましたよ、学生やりながら…番組名とかありましたけど、覚えてないですね。何十回もやったわけじゃないんで。DJが本当に面白くなってきたのは高校に入ってからです。

−−しゃべるほうのDJですよね。「高校に入ってから面白くなってきた」というのは、具体的に何をやってたんですか。

後藤:まず高校に入ったときに、放送委員会と新聞委員会というのがあったんですよ。それで入部したんですけど、名前が格好悪いじゃないですか。それで「名前変えましょう」って言って…1年生なのに生意気ですよね(笑)。生徒総会にかけてもらって、「放送局」と「出版局」って名前に変えたんです。 それから、(放送局では)お昼の番組とかもやってなかったんですけど、それもやりましょう、と。それまで音楽はかかってたんですけど、全てクラッシック、しかもしゃべりは全くゼロの状態だったんですね。ほんと生意気だったんですけど(笑)「それで僕は週末オビでもらいます。金曜日は僕にやらせてください」って言って(笑)。

−−すごい新入生ですね〜(笑)。

後藤:そうなんですよ。今考えると恐ろしいんですけど(笑)。男子校だったんですけどね。

−−男子校なんですか?じゃあ女の子にモテるためにやったわけじゃないんですね(笑)。

後藤:そうですね、男子しか聴いてませんから(笑)。どれだけの人間が聴いてたのかわかりませんけどね。慶応か早稲田かっていえば、早稲田、っていう感じのバンカラ系の学校でした。

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