第29回 恒川光昭 氏

株式会社日音 代表取締役社長 兼 COO
 第29回目のMusicman'sリレーは、(株)日音代表取締役社長、恒川光昭氏の登場です。今や日本を代表する音楽出版社、日音が音楽出版業務を始めたころに入社し、日音が放ったヒットほぼすべての制作に携わってきた恒川氏。「いちばんいい時代を経験できた」と自ら語る恒川氏は、まさに日本の歌謡史を見つめ続けてきた生き証人とも言えるでしょう。運命の出会いとも言える村上司氏との出会いや、スタッフ一丸となって作り上げたC-C-Bの大ヒットなど、日音ヒットの舞台裏を伺うことができました。さらに大の犬好きでもある氏の「世界一の愛犬」、レオン君の素顔も本邦初公開!!
恒川光昭メイン
[2002年8月22日/赤坂・(株)日音にて]
プロフィール
恒川光昭(Mitsuaki TSUNEKAWA)
株式会社日音 代表取締役社長 兼 COO

1944年7月27日 横浜生まれ。
1967年 (株)日音入社。
1983年6月同社取締役制作部長、1989年6月常務取締役就任。1992年、同社専務取締役就任。1995年12月(株)ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役社長就任。1999年7月(株)日音 取締役副社長就任。2001年6月、同社代表取締役社長就任、現在にいたる。


1.モダンな母とベースの思い出…初めて触れたアメリカ文化

恒川光昭2−−ご出身はどちらなんですか?

恒川:生まれは横浜なんです。横浜の間門という所で、今はマイカルとかできてニュータウンになってますけど当時はあの辺りにはベース(米軍基地)がありましてね。

−−折田さん(折田育造氏:元ポリドール(株)代表取締役社長、現ユニバーサル・ミュージック(株)相談役)にも伺いました。

恒川:ああ、折ちゃんも子供の頃はあの辺ウロウロしてたんじゃないかな(笑)。
間門は母親の実家なんですよ。でも戦時中で港が近かったから空襲でやられるようになったんで、疎開して、終戦後に戻ったのは杉並区の荻窪です。父親が荻窪の家を見つけて引っ越したんだと思いますけど…4歳だったかなぁ。それからずっと荻窪育ちで、横浜っ子とは言えないですね。小学校、中学校、高校、大学卒業して、日音に入って、しばらくするまではずっと荻窪でした。

−−そもそもどういうお子さんだったんですか?スポーツマンだったとか悪ガキだったとか…。

恒川:子供のころはね、夏は母親の実家の間門にずっと行ってたんですよ。僕は今でも色黒だけど、その頃はもう真っ黒けで、目がグリグリしてて、それでベースの辺りをウロウロしてますとね、8~9才ぐらいだったけど僕は小さかったから、進駐軍とのかわいそうな混血児に見えたらしいんですよ(笑)。ベースの大きいゲートがあって、今の三渓園の入り口あたりなんだけど、その入り口の所に行くと、衛兵じゃなくて、日本人の門衛みたいのが立っていて、僕を見るとかわいそうな顔をするんですよね(笑)。

−−ははは(笑)

恒川:ゲートを入ってちょうど正面にカマボコ兵舎が並んでいて、そのうちのひときわデカイ兵舎の中から「ゴロゴロゴロゴローッドカーンッ」っていう音がするんですよ。何だろう?って不思議だったんですよね。

−−ボーリングですか?

恒川:そう!すごいな、よくわかりましたね。普通はこの話してもわかりませんよ。それで、あれは何の音だろう、見たいなと思ってのぞいてると、かわいそうな子だからいいんじゃないか?ってなって、「OK」って通してくれたんですよ。それでドアの隙間から見ると、板張りの床で向こうのほうにピンが並んでてね、Tシャツ着た兵隊が大きな黒い球を投げると、向こうにあるピンがドーンって倒れる。「なんだこれは?!」って思いましたよ。それでくびれた黒い瓶をラッパ飲みしてるんですよ。「みんなが飲んでるあの黒いのは何だろう?」って思いましたね。コカコーラですよね(笑)。僕はボーリングとコカコーラの存在を知ったのは早いんじゃないですかね。まあ実際体験するのはずっと後なんだけれども、ちょっと普通の子になかったような体験はありますね。だからって洒落たアメリカナイズされた何かをその頃から持ってたってことはまるでなかったけど。そういう場所に母親の実家があったことと、それから母は長女で、弟の一人が医者で、ベースの中の病院でインターンやってたんですよ。そのおかげでハーシーのココアとかチョコレートとかが母の実家にはありました。「Give me a chocolate.」って言わなくてもそういうものを口にすることはできたんですよね。

ちょっと話飛んじゃうんだけどね、「ハーシーのチョコレートをその頃食べたんだ」っていう話をしたらね、長戸大幸さん(現(株)ビーイング代表取締役社長)がね、「恒川さん、それはやっぱり都会の男だよ」て言うんですよ。「俺は近江にいて上京してからハーシーを食った。やっぱりこの差だなぁ」なんて言ってましたけどね。それぐらいレアな体験だったんでしょうね。それとアメリカの音楽がしょっちゅう鳴ってましたね。

−−ベースの中はフリーパスだったんですか?

恒川:いえいえ。そうではないですよ。覗きに行くのはボーリングの所だけでした。

−−かわいそうだから入れてもらえたんですね。

恒川:そうそう(笑)。それと叔父が医者をやってたんで、ベースの中からSP盤を持ってきたりとか、食べ物持ってきたりっていうことはありましたね。

−−聞くところによると、お母さんがクラシックソプラノをやられていたそうですね。

恒川:そうです、よくご存じですね。母は音楽家を目指してたんですが、戦争で挫折して、結婚したんで音楽家にはなれなかったんですが、歌は続けてましたね。今はやってませんけど、40年ぐらい前は、母親コーラスで活躍していました。

−−そういう音楽的環境があったとはいえ、子供時代から音楽業界に行こうという考えがあったわけじゃないですよね。

恒川:まったくなかったですね。また話が荻窪のころになりますけど、母親はそういう夢を持ってオラトリオとか賛美歌とかの音楽をやっていたようで家に教会のオルガンがあったんですよ。土曜日だったかなぁ、私と妹と母親と3人で強制的に賛美歌を歌わされてました。日曜日は教会に行くんですよ。「来い」って言われて1円玉を持って行くんですよ。まあ私はあんまり行かなかったですけどね。でも、そういったことが音楽と接することだったのかもしれませんね。

−−ずいぶんハイカラなお母さんですよね。終戦直後のことですもんね。

恒川:そうでしょうね。やっぱり当時はモダンだったんじゃないですかね。母は戦前は東芝にいたんですよ。当時の芝浦電機で、秘書課で英文タイプをやっていて芝浦電機の合唱団でソプラノをやってたんです。また話が枝葉になっちゃうんだけど、ここでテノールをやっていた男性が、後々わかったんだけど、ドリーミュージックの社長の新田さん(新田和長氏)の父上だったんです。

−−すごい偶然ですね(笑)。

恒川:あとで仰天しましたよ。二人で仕事しながら「どうもあなたのお父さんとうちのお袋は知り合いらしい」っていう話になって。そんな縁もあったりして。面白いもんですね。

−−子供の頃は将来何になりたかったんですか。

恒川:僕は音楽よりも運動が好きだったので、小学校の時から野球は毎日のようにやってましたし。

−−野球少年ですか?

恒川:野球少年のこんこんちきですよ。妹はその分、小さい時からピアノをやらされたりしてたようですけど。

−−妹さんは渡辺プロでデビューなさってたんですよね。

恒川:そうなんですよ(笑)。ほんとに驚いちゃうよね。

−−何ていう名前で活躍されてたんですか。

恒川:なんとなく言うのも恥ずかしいんだけども、最初にデビューした時はね…。昔、スクールメイツってあったの知ってます?

−−はい、もちろん知ってます。

恒川:昔は森進一もいたんですよ。最初はそのメンバーだったんです。そこからピックアップされた4人の女の子グループ「ザ・スカーレット」になって、ピーナッツさんとか、(伊東)ゆかりさんとか、中尾ミエさんとかのバックコーラスをやったりしてたんです。すぎやま(こういち)先生がやっていた『ザ・ヒットパレード』にデビュー曲で出していただいたりね。それで実はね、その当時のマネージャーが稲垣さん(稲垣博司氏:現(株)ワーナーミュージック・ジャパン代表取締役会長)なんですよ(笑)。

−−え~っ?(笑)そうなんですか!

恒川:最高でしょ?(笑)。笑っちゃいますよね。

−−妹の元マネージャーですか。

恒川:そう。僕が日音で彼が渡辺プロの時に初めて会ったんですけどね。「ああ、なるほどな」と思いました。ウチの妹が「稲垣さんはほんとにいい男なのよ。ハンサムなの」って言ってたから、なるほどなって(笑)。

−−じゃあお会いしたときはもうあの稲垣さんだって知ってらっしゃったんですね。不思議ですね。

恒川:そう、不思議ですよね。そういう縁がほんとにね。