第29回 恒川光昭 氏

3. 歌謡曲全盛の黄金期…日音ヒットの舞台裏

恒川光昭4−−恒川さんは入社した時からほぼ日音一筋ですよね。

恒川:そうですね。入社から辞めるまで29年と8ヶ月。それで日音を辞めてワーナーに行ってまた戻って、それで丸3年経つから、日音での勤務は足すと33年になりますね。

−−まさに日本歌謡史の生き証人というか、まっただ中にずっといらっしゃるってことですよね。

恒川:まっただ中であるかどうかは何ともわからないけど、たぶん一番よかった時代を経験してるんでしょうね。。

−−そうですよね。

恒川:日音だけではなくて音楽業界がガーッと変わる時だったと思うんですよ。どう変わったかっていうと、すぎやまこういちさんや橋本淳さんや筒美京平さんだけではなくて、フリーのポピュラー作家がどっと出てきて、グループサウンズから始まってヒットをどんどん作り出した時代ですよね。

−−歌謡曲が変わった時代ですよね。

恒川:そうですよね。その時代をつぶさに見ることができたし、アシスタントとして一緒に仕事をさせていただいた。ほんとに使い走りで譜面を取りに行ったり資料をもらいに行ったりするところからやってましたから。後々自分が制作担当するようになっても、レコード会社の先輩、作家の方達、プロダクションの方達、いずれにしてもみんなが先生でしたね。そういう恩恵を被ったのは日本の音楽業界のなかでも何人もいないんじゃないかと思ってるぐらいラッキーだったと思いますよ。

−−素晴らしい時代だったんですね。

恒川:自分の体験的にもそうですしそう思ってるんだけど、やっぱり成功体験が一番の教科書だと思うんですよ。これは僕自身の経験でもそう思いますけど、失敗から学ぶことよりも成功したことから学ぶことの方が圧倒的に多いし、後々に役立つのは成功体験ですよね。私が日音に入った頃は村上も本当に苦労してやってました。レコード会社に曲を売り込みに行っても相手にされないし、雑誌社に譜面を載せてもらうために持って行っても「なんで歌本にあれだけ載ってるのにウチは載せてもらえないんだろう」っていうぐらいに悔しい思いもしました。それが入社して2年3年ぐらいで「ブルー・ライト・ヨコハマ」とか大ヒットがバンバン出てきて「また逢う日まで」につながるわけです。それからはもう成功体験ばかりでしたからね。

−−うらやましい話ですね。

恒川:当時はありがたいことに何でもやらなきゃいけなかったからね(笑)。

−−全業界に顔を出して人脈ができたわけですね。

恒川:そうそう。朝一番で「おはようございます!」って作家の家にすっ飛んで行って…「お前かー」ってとても優しくしてくれたのが、なかにし礼さんだったり…そういう毎日のことだけでもとても勉強になりましたよ。でも今はファックスやEメールでしょ?だからそういう機会がなくなっちゃいましたね。

−−タイミングのいい時代を目の当たりに体験されて、なおかつそこで偉くもなり、最高ですね。

恒川:ほんとにラッキーですよね。

−−最初に手がけられたヒットはなんですか?

恒川:自分の初のヒットはね、とてもラッキーなヒットなんですよ。村上から言われてレコード会社の先輩達の所にちょろちょろ行くわけですよ。「また来たのかお前。うっとうしい。シッシッ!」「そう言わずにスタジオにちょっと入れてくださいよ」って行くわけですよ。そうすると聞かれちゃうと困るから「ダメだ」って入れてもらえないでしょう。そこを「入れてくださいよ」って出前のラーメン屋と一緒に入ったりとかして(笑)。

−−ほんとですか?(笑)

恒川:ほんとほんと。そういうことをいっぱいしましたけど、そのうちの一つで、ビクターの深井さんっていう先輩が「こういうのはタイミングだよな。これからスタジオだからおいで」って言ってくれたんです。それでスタジオ行ったら学生がいるわけですよ。それがソルティ・シュガーで、「走れコウタロー」だったんですよ。「これオモシロイですね」「やりたい?」「やらせてください」って言ったら「いいよ。じゃあ著作権、日音でやりなさい。がんばってくれよな」「がんばります!!」ということになって。彼らと一緒に走り回りましたよ。

−−自分が中心になって走り回ったんですか?

恒川:そうそう。マネージャーも学生だったからね。TBSの中を彼らと一緒に走り回ったり。最後はレコード大賞新人賞でしたよ。

−−いきなりすごいですよね。

恒川:ほんといきなりですよ。これはうれしかったですね。

−−タイミングがよかったんですね。

恒川:タイミングも大事ですからね。タイミングの悪い奴っていうのはほんとにいますからね。そういうのに限って会いたくない時に来るんですよね(笑)。後々になってそういうことがわかりましたよ。

−−はははは(笑)。でもいきなりヒットしてしまえばこっちのもんですからね。

恒川:それはだから自分が手がけたということにはならないかもしれないけどね。

−−運も実力のうちですよ。ほかにはどんな作品をなさってたんですか。

恒川:日音のヒットが出はじめた時にはアシスタントしてましたからね。「ブルー・ライト・ヨコハマ」「愛の奇跡」「また逢う日まで」「雨がやんだら」…そのへんは経験してたはずですね。

−−昔のヒットっていうのはレコード会社が作っていたと思うんですが、これらの日音のヒットは出版社が制作してヒットさせるっていう方法を切り開いたってことになるんでしょうね。

恒川:そうですね。まああくまで当社の場合はってことですね。もうその当時は音楽出版社のエキスパートであるシンコーミュージックさん(当時は新興音楽出版社)の企画制作でヒットが沢山ありましたし、フジパシフィックもありましたし。日音はそのちょっと後ぐらいになりますね。ほんとに日音がアーティストを育てて独自の企画でレコーディングをやって原盤を作って大ヒットしたのは「また逢う日まで」の尾崎紀世彦ですね。あとは朝丘雪路、坂本スミ子。それからその直後に、郷ひろみ、南沙織、西城秀樹ですね。

−−歌謡曲の全盛期ですね。

恒川:ほんとにいい時代でした。

−−その制作のすべての舞台裏を知ってらっしゃるわけですよね。恒川さんが本をお書きになったら、それがそのまま日本の歌謡史ですよ。

恒川:いや、それほど面白い本を書けるわけじゃないと思いますけどね(笑)。