第29回 恒川光昭 氏

2. 印刷営業から日音へ…村上司氏との運命の出会い

恒川光昭3−−大学は何学部だったんですか?

恒川:商学部です。

−−この業界にはどんなきっかけで入られたんですか。

恒川:叔父が印刷会社をやってたんですが、レコード会社との仕事がとても多い会社だったんです。

−−ジャケットの印刷とかですか?

恒川:ジャケットはやってなかったけどカタログとかね。

−−何ていう名前の印刷会社ですか?

恒川:ご存じないとは思いますけど、三和印刷っていう会社です。一番大きな取引先はキングレコードでしたね。父親と母親が早くに離婚したものですから、母親がずっとそこで金庫番をやっていた関係で、高校時代からそこでアルバイトしてたんです。押し掛けアルバイトですね。それで給料を野球部の部費の足しにしたりとかしてました。それであるとき叔父に「アルバイトじゃなくて将来役に立つような姿勢で取り組め」と言われたんですよ。

−−後を継ぐつもりで本気で仕事しろと。

恒川:そうです。それで昼間はそこに勤めて、夜は商学部の二部に通ってたんですよ。仕事終わって学校に行くっていう…真面目ですよね、勤労学生だからね。でもやっぱりその仕事が好きになれなくてね。パンフレットを作ったりレイアウトをしたりすることは嫌いじゃないんだけど、その仕事を後を継いでやっていく気にはなれなかったんですよ。当時、妹は渡辺プロのオーディションを受けて、いつの間にかテレビに出てましたしね…。やっぱり音楽は好きだったし、子供の頃から軍歌も好きだったんですよ。

−−軍歌ですか?

恒川:そうなんですよ。妙な奴でね。子供が歌うって珍しいんだろうけども「異国の丘」とか「ああモンテンルパの夜はふけて」とか「暁に祈る」とか、いろいろあるじゃないですか。ああいう軍歌も知ってましたし、もちろん日本の歌謡曲なんかも今でも歌えるし、あの頃の歌ってほとんど歌えましたよ。学校でそういう歌を歌うと先生は嫌がるんだけど(笑)、先生が喜ぶ歌もちゃんと歌えたし。やっぱり歌うまかったんですよ。賛美歌歌ってたからかなぁ。声変わりしてからも声が高い音域まで出たりしたんで、何でもこいみたいな感じでしたね。

−−やっぱり音楽の素質があったんですね。

恒川:当時アメリカの音楽なんかもラジオでばんばん流れていたし、友達でエレキバンドやる連中もいましたしね。僕はバンドには入らなかったんですけど、よくくっついて学生のインチキパーティー風な所にも出入りしてました。その時の仲間が、今(株)ジャパン・ミュージックエンターテイメント代表の藤岡さん(隆氏)ですよ。

でもほんとに音楽業界を目指そうと思ったのは、人との出会いですよね。印刷会社で仕事をしてるときにキングレコードさんに年がら年中行って、キングレコードの方がある人を紹介してくれたんですよ。すごいカッコよかった。スカジーのBタイプって知ってます?

−−もちろん、わかります。スカイライン2000GTのことですよね。

恒川:そうそう、あの当時スカジーのBタイプに乗ってるなんていうのは大変なことですよね。それで音羽のキングレコードから、赤坂の溜池まで乗っけてきてもらって。「何やってるんだ?」って話したんですよ。「昼はこの仕事をしてて、夜は学校に行って、夜中は友達とバーテンとコックやってます」って。「やけに欲張りだなお前は」って言われましたよ。欲張りかどうかはわからないけど、自分が何をやりたいのかわかんないから客商売もやってたんですね。若いから元気いいから夜中の3時まで働いたって平気でしたね。…その人がかっこよく見えたから半ばいいかげんな気持ちだったかもしれないけど(笑)「音楽の仕事に携わりたいんです」って話したんです。そしたら「ともかく仕事あげるから会社においでよ」って言われて。今のコロムビアの近くの音楽出版社なんですよね。

−−その人はどなただったんですか。

恒川:その人はね、今はもう業界にはいないし、知ってる方はほとんどいないと思います。そこに仕事をもらいに行ったら、ギターを弾いて曲を作ったり歌ったりしてる人がいるし。…ヘンリーって知ってます?シンガーソングライターのハシリですよ。その人が来たりしてカッコいいなと思ったりして。それで何回か行ってるうちにそこの社長の方が「ほんとにそういう仕事がしたいなら、俺の親友が音楽出版社にいる。優秀だし、たぶんそいつは将来社長になると思うよ。彼がアシスタントを捜しているから、卒業したらもしかしたら雇ってもらえるかもしれない。とにかく一度紹介してあげるけど、でも半端じゃなく厳しいよ」って言ってくれたんです。でも僕は楽天的で、「大丈夫ですよ~」とか言ってたんですよ(笑)。

−−はははは(笑)

恒川:ほんといいかげんなんですよ。カッコばっかりつけてたし。まあそれで紹介してもらったのが村上(司氏:現(株)日音 代表取締役会長)ですよね。たしかに第一印象は怖そうだなって思いましたね。当時の日音は「日本音楽出版」て社名だったんだけど、「ウチからも仕事あげるから来なさい」って言われてちょっとしたチラシを作らせてもらったりしてました。

−−印刷屋さんとして行ってたんですか?

恒川:そう。最初はね。まだ在学中だったから。夏のめちゃくちゃ暑い時でしたね。それで何回か会って飲んだりして。僕も飲んべえだったし、向こうはもっと飲んべえだから(笑)。それで「卒業したらどうするんだ?」「実はこういう仕事をしたいんです」って話したんですよ。でもどこまで本気で思ってたか自分でもわからないんですけどね。とにかくひとえに「この会社を継ぐのは嫌だ」というのがあったから(笑)。

−−確実に継ぐことが決まってたんですか?

恒川:そう。そういうストーリーができてたんですよ。いとこが小さかったのでそれが後を継ぐまでかなりあるから、とりあえずそれまではってことでね。だから村上さんには「ともかく頑張りますからよろしくお願いします」って、これしか言うことなかったですよ。それで晴れて卒業と同時に日本音楽出版に入社することができたんです。

−−日本音楽出版だから日音になったんですね。

恒川:そうです。「また逢う日まで」の頃は日本音楽出版なんですよ。あれが大ヒットして、日音創立8周年のイベントをやった時に、通称「日音」だったので日音っていう社名に変更したんです。きっかけは「また逢う日まで」と「雨がやんだら」の大ヒットかな。

−−その頃も日音はある程度大きかったんですよね。

恒川:いやあ、小さかったですよ。

−−今では日音でスタッフ募集したら何千人が応募してくると思うんですけども、当時は知り合いの紹介で入れる規模だったんですか?

恒川:まだそういう規模ですよね。当時は本の出版もやってたから、その社員が半分ぐらいいたかな。今やってるようなオリジナル楽曲の原盤制作等の仕事は村上が一人でやってましたから。

−−村上さんが始められたんですか?

恒川:そうです。村上が始めたんですよね実は。そこに私が入ったんです。オリジナル楽曲をNo.1から台帳に打ち込んでいくのがまず仕事でしたけど、僕が入った時はまだ一ケタでしたからね。日音のオリジナル曲にはTBSの鈴木道明さんっていう泣く子も黙るTBSの歌の番組のプロデューサーがいらしたんですが、作詞作曲もなさっていて、その大先生の担当は別だったんです。鈴木道明さん以外のオリジナルを村上がやっていたんですね。このオリジナル楽曲の2番か3番目が猪俣公章さんで、何番目かが筒美京平さんですよ。筒美京平さんには初めはすぎやまこういちさんの名前で作った「黄色いレモン」っていう曲があるんです。「♪黄色いレモンに涙がこぼれ~」っていう歌ね…知らないでしょ?やっとここ最近になってすぎやまこういちさんの名前から「筒美京平」に変えたんです。

−−当時は自分の名前を伏せてたんですか?

恒川:そうです。筒美さんはまだポリドールの社員だったから名前は使えないっていうんで、すぎやまこういちさんの名前でやっていて、その直後に筒美さんがポリドールを辞めたので筒美さんの名前で出したんですよ。その時は村上と私の二人しかいなかったから、ほんとになんでもやってましたよ。できないとクビになっちゃうし(笑)。

−−でも村上さんは頼りにしてたんでしょうね。

恒川:いやぁどうだろう?こいつ調子はいいけどほんとの所はどうなんだろうって思ってたんじゃないかな。入社に当たっては厳しいテーマを与えられてましたから。「人の3倍仕事をしろ」って。

−−でも学生時代から人の3倍働いてたでしょう。

恒川:たしかにそうだけど、それはどこかいいかげんなところもあったからね。今度は本気で人の3倍やらなくちゃいけない。「3年で覚えるところを1年で、3ヶ月で覚えるところを1ヶ月で、3日で覚えるところを1日で覚えろ。二度と言わないぞ」と言われてましたから、何度クビって言われたかわからないですよ。

−−クビって言われたことあるんですか。

恒川:言われてましたよ。最初は入社前に言われましたからね、あまりにもいいかげんだから(笑)。