| ●そのころのミュージシャンってみんな銀座とかのキャバレーで一晩にいくつか回って、札束とかバンバン出して…っていう世界ですよね。 |
| そうそう、そのころ僕が上京してきて平岡さんのバンドをやめて、自分のバンドで活動し始めた頃にね、「丸の内クラブ」っていう高級クラブがあって、経営者の人が中国人だったかな?毎晩その日に給料もらうのよ。夜7時くらいから始まって、夜中の2時頃までやるの。2時半ぐらいにへとへとになって社長のところに行って、「社長、今日の日当はどうですか?」「う〜ん、今日はお客さん入んないから、今日はナシヨ」とか言われたりしてね(笑)。そうかと思えば「今日は少し入ったから、はいコレ昨日のぶんもネ」って…ひとり700円か800円、僕が900円くらいだったかな。1000円はくれなかった。 |
| ●でも今のお金で言ったら2万とか3万とかですよね。 |
| いや、一晩だったから…そこのお店でなにか一杯飲むだけでも結構高かったからね。あ、でもそうか。そのくらいになるかもね。そうか、でもそうするとひと月に20何日間やるわけだから、60万から70万か…今はそんなにとれないねぇ。今だったらひとつのクラブで40〜50万とれればいいほうじゃない? |
| ●だいたいそういう仕事自体、ないですよね。 |
| そうだね。 |
| ●昔はたくさんありましたからね。ミュージシャンは派手に遊んでましたよね。 |
| そうそう、ミュージシャンは派手だったもん。酒飲んでも女遊びしても着るもん着てもね、お洒落でね…ヘアースタイルでもわざわざ代々木の山野学校まで行ってね、そこでアイロンかけて前にたらしてね…あれやりすぎるとこげちゃうんだよね。 |
| ●アイパーですね(笑)。 |
| すぐとれちゃうし、髪もすごく傷むんだけど、それでもやってたからね。格好いいと思ってね……まあ良き時代でしたよ。 |
| ●そういう流れでハナ肇さんのバンドとか出てくるわけですよね。その辺は古いつきあいで始まってるんでしょうか。 |
| あのね、東京へ出てきてすぐ渡辺プロに入ったんですよ。 |
| ●ナベ晋さんのバンドに? |
| いや、平岡さんのバンドに入ったんだけど…面白くなかったんだよね、あんまり(笑)。それでやめて、自分たちでバンドやり始めて。浜町あたりにMOCAMBOっていうダンスホールができて、初日なのに客4、5人しかいなくてシーンとして座って聞いてて大丈夫かなと思ってたの。そこでやってたら力道山が酔っぱらってきて、あれやれ、コレやれってうるさいわけ。うちのドラムはジミー竹内さんで、鼻息荒いから文句言ったらさ、「何ぃお前?!」って殴られてさ(笑)。力道山に。 |
| ●素人に手出しちゃやばいですね(笑)。 |
あっという間につぶれたね、その店は(笑)。
それで渡辺晋とシックスジョーズの山崎唯さんがやめるっていうんで俺は引っ張られたわけよ。その前にもうドラムのジミー竹内は引っ張られてて、それで「おう宮、俺んとこ来る?」って「ああ行く行く」って参加してね。(俺たちのバンドの)残党はもうガックリして仕事してたみたいだけどね。俺の中学校の同級生だったんだけど。
でも(シックスジョーズでも)松本英彦さんがやめちゃって、そうすると人気なくなるでしょう。そのころにはピーナッツもやってたしね。 |
| ●もうそのころなんですね。1963年ごろですか?渡辺晋さんは社長やってたんですか。 |
うん、社長業もやってたけど、それを全面に出すのはもうちょっとあとかな。ナベプロが日比谷にあったころね。
僕はピーナッツのトレーニングやれって晋さんに言われてね。(ピーナッツのふたりは)ものすごい勘がいいんですよ。双子だから音色が似てるし、リズム感があるし、若くてピチピチしてる。すぐスターになれるよって。それで教えたんですよ。それは勉強になってね。アレンジも自分でやらなくちゃだめだからね。それから『ヒットパレード』ができて(1959年)、そこにピーナッツを売り込んで、バーンとスターにしちゃったのよ。 |