第139回 須藤 晃 氏 音楽プロデューサー

3. 東京大学入学とニューヨークでの刺激的な日々


−− 東京大学はご自身で受かると思われていましたか?

須藤:ちょうど安田講堂事件の翌年なんですよ。だから試験が一回無かった翌年だったので、結構狭き門だったんですね。どうしても東大行きたい人もいっぱいいた年で、自分はとても合格しないだろうと思っていたんですが、今でも覚えていますけど「親子の断絶について書け」という長文の試験がメインだったんですね。僕はそこで「親子どんぶり」について書いたんですよ。米は新潟のコシヒカリ、三つ葉はどこのやつ、鶏肉は○○産だけど卵はどこどこじゃなきゃいけない、みたいなこだわりがあって日本一うまい親子どんぶりは作られるんだろうみたいなことを書いてね。で、親子関係の断絶については全く書かなかったんですよ。きっと受かると思ってなかったんだと思います。

でも、大学に入った後にある先生に「あ、お前か」って言われました。面白いこと書いているやつがいたんだよって。だからきっとそれが良い点数を取ったんでしょうね。その年はマークシート方式が無くなった年で、試しで長文の問題が出たんですよね。そういう風に変わった試験だったから合格したんじゃないかなと思ったんですけどね。

−− その文章は「鶏肉と卵が実の親子じゃない」というテーゼから書かれたんじゃないんですか?

須藤:そんなことも含めてですね。一番うまい鶏肉と一番うまい鶏卵っていうのは多分実の親子じゃないじゃないですか。細かいことは覚えてないですよ、でもそれがいい点数をとった。

−− とにかくめちゃくちゃユニークなことを書いたんですね。

須藤:他にそんなこと書いている奴はいなかったです。当時の東大って基本的には秀才ばっかりですからね。入ってみるとユニークな奴が本当に少ない大学でしたね。今は違うと思うんですけど。

−− 役人になるような人たちの雰囲気ですか?

須藤:同級生はほとんど学者になりましたね。僕みたいな仕事をしている奴もいないです。だから逆に今でも面白がられるというね。その当時の大学教授とかと仕事上で会ったりしたときも「先生の授業を受けていたんですよ」って言うと「俺の授業受けていて、お前はこんな世界にいるのか」って(笑)。東大を出てレコード会社に入ったときにみんなから「お前よっぽどできなかったんだな」って言われましたからね(笑)。なんでこんなとこにしたんだよって。でも僕はNHKとか電通とかも受けたんですけど、ものの見事に落ちたんです。それでレコード会社が受かったんですよね。これも何かの運命ですよね。

−− 大学進学で上京されて、東京での生活はいかがでしたか?

須藤:とにかく都会に出たい、東京に行きたいって思っていましたからね。僕はお金も無かったので、富山から東京まで各駅停車で上京しました。遠いですから24時間くらいかかりました。それで東京に着いた翌日に僕が最初にしたことは映画を観に行くことでした。東京はそういうことがいつでもできる街なんだって興奮しましたね。映画は好きだったんですが、自分が住んでいる町に映画館はなかったんですね。

−− その後、大学時代にニューヨークへ行かれていますね。きっかけはなんだったんですか?

須藤:小田実さんの『何でも見てやろう』を読んですごく感化されたのと、寺山さんの『書を捨てよ町に出よう』を読んで、「自分の知らないことが多すぎる」と思っていたので、とにかく海外へ行きたいという想いが強かったんです。お金もなかったので当時付き合っていた、まぁその人と結婚するんですけど(笑)、奥さんの親にお金借りて。

−− 奥さんのご両親にお金を借りたんですか?(笑)

須藤:そう。「アメリカに行きたい」って言ったら「じゃあ行ってきたら」と(笑)。グレーハウンドというバスがあるんですが、それは日本で500ドルくらいのチケット買うと乗り放題なんですよね。それを聞きつけてチケットを買って、トラベラーズチェックで1000ドルくらい持ってアメリカに渡りました。

−− それは大学何年のときですか?

須藤:大学3年のときですね。このままいったら卒業して就職するしかないと思って。自分のやりたいことも何にも見つからないし、とりあえずアメリカに行って見聞を広めれば、なにかヒントがあるかもしれない、くらいの気持ちだったと思います。

−− アメリカ横断は西海岸からですか?

須藤:ロサンゼルスからグレーハウンドに乗ってラスベガス、シカゴをまわって、それでニューヨークに着いて、日本で紹介してもらっていた画家の人がいたので、その人のアパートを尋ねたんです。そうしたらその人が凄くいい人で、歓迎してくれてアパートを紹介してくれて、そこを借りました。それでソーホーをぶらぶらしていたら、その日に日本人に声を掛けられたんですよね。それで「旅行者です」と言ったら「お前釘打てるか?」「打てますよ」って答えたら「じゃあ、お前明日から働け」と。「ギャラリーの改装とか、大工仕事がいっぱいあるから」って言われて。

で、次の日から大工仕事ですよ。要するにギャラリーの改装をするんですが、向こうはツーバイフォーといって1種類の材木を切ったり貼ったりするみたいな工法だったんです。ですから設計図みたいなものは無くて、口で指示されて釘を打つみたいなね。それを朝から夕方までやって、その後カフェバーみたいなところに行って、みんなでビールを飲むみたいな生活を始めたんですが、それをやっているのがみんな売れない画家なんですよ。そういう人たちから「スドウ、スドウ」って可愛がってもらって。しかも1日いくらってお金をくれたんですよ。ニューヨークに着いたときにはもうほとんどお金がなかったので「こりゃいいや」と思いましたね。まさに70年代当時のニューヨークを満喫できました。

−− 旅行というよりも、仕事をしつつニューヨークに住んでいたわけですよね。

須藤:住んでいました。池田満寿夫さんとかもいるような時代のニューヨークですよね。それで僕が知り合った人はみんなアーティストでしたけど、そこで色んなことを教えてもらって、このままずっとニューヨークにいようかなと思っていたときに、ある人が「君、東大生なんだろ? だったら帰れよ。みんなここに来て帰らなくなった人間ばっかりなんだよ」って言ってくれたんですよね。「また来たけりゃ、学校卒業してから来いよ」って。それでもう何かを得たような感じもしていたので「じゃあとりあえず帰ります」とニューヨークを出て、グレーハウンドでロスまで行って、それで帰国したんです。