第115回 吉田 真佐男 氏

(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長
(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長 吉田真佐男さん
 今回の「Musicman's RELAY」は、音楽プロデューサー / (株)エスエム・エンタテインメント・ジャパン CBO土屋 望さんからのご紹介で、(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長 吉田真佐男さんのご登場です。プロ野球選手を目指す高校球児時代からあらゆる遊びに興じた大学生活、猛烈な勢いでタイアップ楽曲を送り出していった90年代、そして、エンターテインメント全般にまでフィールドを求める現在まで、リニューアル直後のテレビ朝日ミュージック新社屋でお話を伺いました。
[2013年9月5日 / 港区六本木 (株)テレビ朝日ミュージックにて]
プロフィール
吉田 真佐男(よしだ・まさお)
(株)テレビ朝日ミュージック 代表取締役社長

生年月日 昭和22年11月11日
昭和45年 日本大学芸術学部卒
昭和48年4月1日 (株)テレビ朝日ミュージック 入社
昭和60年7月1日 同 制作部長
平成6年6月30日 同 役員待遇
平成7年6月30日 同 取締役
平成9年6月30日 同 常務取締役就任
平成13年6月29日 同 代表取締役社長就任

1. 魚釣りが今の仕事に繋がる理由


−−前回ご出演いただいた土屋さんとはいつ頃出会われたのでしょうか?

吉田:土屋君に初めて会ったのは2000年頃、彼がメロディー・スター・レコーズの代表者として鬼束ちひろを担当していました。東芝EMI(現 ユニバーサル ミュージック EMI Records Japan)は毎年自社のカタログをコンベンション形式で業界関係者にプレゼンテーションしていて、それをたまたま観に行き、新人を中心に観ていたんですが、「あまり面白い新人がいないな」と思って、帰ろうと出口のドアのところまで来た時鬼束ちひろの曲が映像でワンコーラスだけかかって、「これはいい」と思ったんです。それで、我社の社員にEMIの誰が担当しているか調べてもらって、その次の日にやって来たのが土屋君でした。

話を聞くと、鬼束は過去に1作出していて、次の作品の発売もすでに決まり、営業所くらいまでは行っている時期だったんですが、それを一度止めてもらって、包括的な契約でうちでやらないか? という話をしたんですよ。幸い、コンベンションで「鬼束がいい」と言ったのは僕1人だったみたいで(笑)、すぐに一緒にやることが決まったんです。

−−吉田さんは鬼束ちひろさんのどこに惹かれたんですか?

吉田:その当時2000年問題の真っ只中で、ノストラダムスの大予言とか2000年にコンピューターが止まるとか、世の中は精神的パニック状態だったんですね。鬼束はそういう時代にはうってつけのアーティストだな、と思ったんです。その頃、たまたま「TRICK」というドラマの企画があって、「鬼束はこのドラマにぴったりだな」とプレゼンをして作ったのが「月光」です。結果、「月光」が売れて、それから土屋君とは深い付き合いになっていきました。

実は一時、土屋君は我社に入っていたこともありました。また、2001年頃に我社がアーティストのマネージメントを始めるんですが、その直後に世田谷の代田にスタジオを作ったんですね。そこでスタッフが必要だということになって、土屋君に頼んだら、スタッフを全員用意してくれたんですよ。この人たちが非常に優秀な人たちで、代田のスタジオは5〜6年使ったんですが、やはり会社に近くないと不便なので、のちに六本木に新たにスタジオを作って、そこにスタッフ全員移動してきて現在も頑張ってくれています。

−−六本木のスタジオをホームページで拝見したのですが、立派なスタジオですね。http://www.noe.co.jp/technology/29/29news1.html

吉田:地中海のリゾート地でバカンスを楽しんでいるようなイメージにしました。

−−吉田さんがデザインされたんですか?

吉田:そうです。8月に社屋をリニューアルしたんですが、これも自分で基本コンセプトテーマとデザインを考えて4社のデザイン会社に発注して、一番イメージに近いものをピックアップして、それを具体的に形にしていきました。スタジオも同じですね。

−−建築やデザインがお好きなんですか?

吉田:ものを創ることが好きなんですよね。夢があるじゃないですか? 子供が泥遊びをするみたいなもので(笑)。社員にはデザインを一切見せなかったので、リニューアル後出社してきてみんなビックリしていましたね。社員にNG出されるケースもあるので、リスクはありますけど(笑)。

−−ここからは吉田さんご自身のことをお伺いしたいのですが、お生まれはどちらですか?

吉田:埼玉県の飯能市で、正丸峠に向かう途中にある北川という山の中です。鳥の鳴き声と川の音を聴きながら目を覚ますみたいな所ですよ(笑)。

−−ご両親は何をされていたんですか?

吉田:林業ですね。山を持っていたので36万坪くらい土地があるんですけど、僕は林業経営には全く興味がなくて、早く家を出たかったですね(笑)。

−−それは先祖代々その土地でやられてきたんですか?

吉田:今、後を継いでいる兄で6代目、江戸時代の末期頃からです。

−−ちなみに、ご家庭では今のお仕事に繋がるようなことは何かあったんでしょうか?

吉田:子供時代って魚を獲ったり、鳥を獲ったり、そんなことばかりしていたんです。そういった遊びと今やっていることは殆ど変わらないなとすごく思いますけどね。

−−それはどういったところがですか?

吉田:魚って、その習性を知っていれば、苦労せずに簡単に獲れるんです。一年間の生態系を把握してしまえば。その経験はこの仕事をしていて、すごく役に立ちましたね。市場調査ということが一つと、魚をユーザーやアーティスト、アーティストの予備軍なんかに例えてね。

1996年に「Break Out」という番組を作ったんですが、「Break Out」では全国のライブハウスにカメラ2台とパソコンを置き、毎晩映像と情報を送ってもらって、いいバンドをピックアップするシステムを作ったんです。自分がライブハウスに行って、いいバンドを探すよりも、ライブハウスの担当者が情報を送ってくれるので、会社にいながらにして、どんなバンドで何人客が入って男女比はいくつで年齢はこれくらいかとか、全部分かるんですね。そこでこれはいいとなれば観に行って会う。元を正せばデータを取っていただけだったんです。これが一番大事なんです。

−−まずはアーティストや観客の習性を知ると。

吉田:そうです。自分の主観も大事ですが、客観的なデータが現実にはもっと大事です。一緒に組んでいたライブハウスさんは、ものすごく景気がよくなったみたいです。バンドの子たちは、そのライブハウスに行けば東京のテレビに撮ってもらえるということで、みんな出ようとする。僕の方でもライブハウスの店長さんにテレビに出てもらって喋ってもらいアーティストを育てる地元のヒーローにする。そうするとアーティストがそのライブハウスと店長を頼ってくるんです。「Break Out」からSHAZNA、PIERROT・・・など多くのインディーズアーティストが世に出て行きました。そして一年半後に「FUTURE TRACKS」という番組を作ったんですね。そこではクラブに焦点を当てました。この番組から一番最初に有名になったのがm-floです。

−−m-floを世に出したのは「FUTURE TRACKS」なんですか?

吉田:そうです。僕はインディーズもクラブも詳しくないので、クラブ系に強かったアーティマージュの浅川真次君、ニューワールドプロダクションズの後藤貴之君、エレメンツの野村昌史君たちに、番組を作るときに、スタッフというよりブレーンとして彼らに参加してもらいました。ただ、「Break Out」も「FUTURE TRACKS」も当時テレビ朝日の編成に理解してもらえず放送枠を空けてもらえないので、2番組とも枠をスポンサーとして我社で提供しちゃったんです。そうしたら自分たちのビジネスを考えた企画に作れちゃうということもありますしね。初期はローカル局に放送交渉していき、1局ずつ増やしていって、今はテレビ朝日で2番組とも全国24局で放送しています。