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●まずはロフトの歴史から伺います。最初の「ロフト」を作られたのはいつ頃なんでしょうか。
●中央線は面白かったですよね。 そうだよね。当時中央線吉祥寺発という「名前のない新聞」というミニコミがあって、中央線を主題にした友部正人の名曲「にんじん」が僕らの気持ちをよく捉えてた。南正人がコミューンを作って集団生活をしていたり、矢野顕子、山下洋輔なんかが住んでいて、吉祥寺周辺には「メグ」とか「ファンキー」といったジャズ道場があって、「がらんどう」とか「赤毛とそばかす」「マッチボックス」「西洋乞食」とかのロックやフォーク喫茶があって、吉祥寺を中心として 荻窪や阿佐谷、高円寺なんて結構ジャズやフォークロックで盛り上がっていた時代。 ●烏山には何か独特な面白い雰囲気があったんですか? いや、僕の家から近かったと言う感じで出店を決めてしまったんですよ。脱サラだったんでマーケティングなんかしなかったけど、そんな訳の分からない小さな店に若い子達が集まってきてね。レコード枚数も少なかったんで、お客さんが勝手に自分のレコードを持ってきてくれて勝手に店でかけるんですよ。僕はロックやフォークを彼らお客から教わることになるんです。初めて聞いたエイプリル・フール(編註:小坂忠、菊地英二、柳田博義、細野晴臣、松本隆からなるバンド。のちにはっぴいえんどの前身、ばれんたいんぶるうに発展)やはっぴいえんど(「風街ろまん」)、ピンク・フロイド(「原子心母」)なんかとても衝撃的だった。へぇ〜ロックって結構面白いんだって発見する訳ですよ。烏山ロフトは解放されたジャズスナックみたいな感じかな。 ●お客が勝手にかけるってのが面白いですね。 浅川マキやフリージャズの山下洋輔なんかを聞いて、それがあまりにも新鮮だったのを覚えててるね。「ダンシング古事記」は僕のジャズの歴史を変えてくれた1枚ですよ!その後ずいぶんたって、烏山ロフトでは時折フォークの生ライブなんかもやってましたね。当時の「がらんどう」に一番影響されてたところがありますね「がらんどう」ってのは村瀬さん…だったかな、彼がやっていた吉祥寺のフォーク喫茶で、別にPAとかステージなんか全くなかったんだけれど、いろんなフォークシンガーが気紛れにやってきて、突然ギターを取り出して歌うんですよ。居合わせたお客さんも高田渡の「自転車に乗って」なんて曲を一緒に歌ったりして、みんな生音で、もちろんライブチャージなんかなくって、本当に自然にそれより昔の「歌声喫茶」みたいな感じだったね。 ●その頃の音楽業界というのはどんなシーンだったんですか。 今言ったような「日本のロック」に僕が出会って、そういう「僕らが支持する音楽」をみんなに聞いて貰おうっていうテーマがあったんだけど、そういうのをやる場所がなかったんですよ。日比谷の野音で年に1回行われるロックコンサート(日本ロックフェスティバル)にはっぴいえんどが出たり、頭脳警察が出たりするのが精一杯で。当時はキングベルウッドレコードの三浦(光紀)さんや大蔵(博/(株)ミディ代表取締役)さん、ヤングギターの、ほら、シンコーミュージックの…そう、今や偉い人の山本(隆士)さん、風都市の上条さん、如月ミュージックの田中さん、テイクワンの柏原(卓)さん、長戸(芳郎/ビリーヴ・イン・マジック)さんや前田(祥丈)さん達が頑張っていて、少なからず日本のロックやフォークのレコードは出てはいたんだよ。でもこれいいな、このバンド見たい、会ってみたいと思ってもやる場所も見る場所もない。じゃあオレが作っちゃえ、っていうのが最初の発想。吉祥寺にあったライブハウスの「オズ」や渋谷の「マガジン1/2」…それらが全部つぶれて、僕がライブが出来るロフトをやろうとしたときには、東京には常時ライブをやっている空間が1軒もなかった。勿論ライブハウスて言葉も、「ぴあ」なんていう情報誌すらなかった時代だからね。 ●フォークブームは終わってる頃ですよね。 中津川フォークジャンボリー(1969年/1970年)が終わって、新宿西口フォークゲリラの残党やヒッピー文化の生き残りが福生のアメリカ軍住宅や吉祥寺周辺でやってたころだね。大瀧さんや細野さん、パンタさん、友部正人とか高田渡、遠藤賢次、久保田真琴とか、そういう連中がひそんでこつこつと自分の信じる音楽をやっていた時代。 ●そういう状況でロフトを作ったということは、お客さんはどうだったんですか? まったく、悲惨な状態だったですね。まあ、ライブは客が入らなくて赤字というのは開店してしばらくしてから当然と思っていたから…。チャージは100円から高くって600円かな。コーヒー一杯が150円の時代。だから店でのライブ演奏が後半になるとチャージ無料にして、通りがかりのお客さんを呼び込んで入れていた。その時代、とにかく誰でも良いから、一度でも聞いてさわって貰いたかった。ミュージシャンも全然文句言わなかったんですよ。だから僕がこだわっていたのは情報が発信出来るロック、フォーク、ジャズ居酒屋なんですよ。楽屋もオープンにしてと言うよりそんなもんなかったし、出番までは客席で待っていてもらって、お客さんはいつでも音楽家と話すことができた。なぜこの3つが共存できないのか、みんな同じじゃないか?という意識があってね…。 ●古き良き、ライブハウスのあるべき姿ですね。ロックのロフト、になるのはいつ頃なんですか? だんだんロック中心になって来るのは荻窪ロフトの時代ですね。1軒目の西荻窪ロフトはフォークが主流の時代。防音、機材の不備があったんで。まあなんて言っても照明は裸電球に銀紙くるんでたし、PAはヤマハの6チャンネル、スピーカーはジムテック、ピアノはアップライト。ほとんど生音状態ですからねぇ。昼12時から5時までロック喫茶をやって、5時から9時半ごろまでライブやって、またすぐ現場をかたづけて朝の4時までまた居酒屋やる。ライブは客入らないもんなんだから。ライブで儲かったことなんてほとんどない。ライブは客入らないけど、残ったお客さんとか、ロック好きのお客さんがひとつのシーンの中にいて、それをのぞいてみたい、ていうお客さん相手に居酒屋をやって僕はずっとメシ食ってきた。だから、ロックのライブでメシを食うって発想、ライブチャージの上がりで経営するって発想はまったくなかったね。そんなこと不可能だったし、だから居酒屋で稼いでいた。酒と音楽って言うのは不可欠だと思うからね。僕は酒飲みだから(笑)。だからどんなに客がはいらなくってもライブハウスをやり続けられたのかな? ●アメリカではそういうパターンが当たり前ですよね。それがアメリカの懐の深い土壌を作ってきたルーツ・バックグラウンドであり、そういう所からアメリカのジャズやロック、ブラック・ミュージック、カントリーなどが育ってきている風土がありますよね。そういう思いは漫然と頭の中にあったんですか。 そうですね。まだアメリカを見たことなかった時は自然に適当にやっていたんですけど、一度行ってからはアメリカ行くたんびにね、なんでみんなこうやって楽しそうにやってるんだろうって思ってた。そして自分のやって来たことが間違ってはいなかったと確信するようになったのかな。PAだって酒飲みながら女と肩組んでやってたり、ステージングだって楽しそうにやってるし、お客も中高年もたくさんいて、雑談ありで、なんでこんなに自由なんだって。その点なんで日本ではPAや照明スタッフは真っ青な顔してやってるし、どうしてこんなに楽しめないんだろうって思いはありましたね。 ●そういう日本にバカヤローって言えない自分からつなげていって、日本なりの形を作っていたわけですよね。ルーツはやっぱりアメリカですか。 そうですね。僕はいちばん初めにはまったのはジャズでしたから、それもコルトレーンさえ聞いていれば満足と思っていた時代が長くあって。やっぱり昔のアメリカのライブハウスっていうのは、その原点は郵便局員や道路工事の労働者達が昼間働いて、夜気の合う仲間同士が三々五々地下室にやって来て演奏を楽しむ。それをみんなコーラやハンバーガー、ビール片手にちょっと聞きに楽しみに来る、それがライブハウスの基本でしょ。音が悪いとか照明がなんてそんなのは酒を飲んで、音楽を楽しむって言うことにはあまり関係ないと思っていたんですよ。重要なのは表現者と聞く方のコミュニケーションの仕方が重要なんだと…。 ●そのへんもやっぱり60年代のアメリカ文化の影響がありますよね。日本人はジャズ喫茶にしてもこうみんなで真面目そうに聞いて、私語禁止、みたいな感じでしたよね。もう文化が全然違う。烏山に最初のロフトを作ったのは正確には何年ですか? 1971年。烏山はジャズ喫茶だったけど、1973年に西荻ロフトを作って、これはまだフォーク喫茶みたいな感じだった。そのころは本格的なライブをやれる場所がほんとになくて、それで1974年に作ったのが荻窪ロフト。荻窪はティンパンアレイ系のミュージシャンのたまり場みたいなもんだったよ。下北沢ロフトがその次の年で、新宿ロフトができたのは1976年だね。自由が丘ロフトが1980年かな。結局その時点ではロフトは6店舗あったわけなんだけど。 ●さきほどのお話で、居酒屋で儲けるっていうことは、出演バンドのノルマとかはないわけですよね? もちろんノルマはないですよ。すべてライブチャージは出演者に返していたんですよ。客が全然入らなくても、きちんとチャージ分は返していた。僕らは飲食代でかせぐっていう方針。入った人数分のチャージをピンハネするようになったのはもっとず〜っと後のことですね。 ●ほんの数年のあいだに、ノルマがないという経営の仕方で6軒にも増やしてしまうっていう、その経営手腕はすごいですね。 ライブでは全然儲からなかったですけどね。客より演奏者の方が多いというのは日常でした。でも、ライブのおかげで店は有名になっていくし、ロック居酒屋ではよく客さんが入ってくれました。外でライブが終わるの待って行列まで出来ていたんですよ。ライブではあまりお客さん入らないのにね。下北ロフトのサザンオールスターズのライブなんか客5人以下なんていうのが続いてたしね。サザンがこんなに大きくなるなんて当時は全然思わなかったけど、メンバーが下北ロフトの店員やってがんばってくれてたから文句言えなかった(笑)…サザンが凄いバンドだって発掘したスピードスターの高垣さん!すごいですね、脱帽ですよ。サザンもね、ロフトにまた一度は出てほしいと思うけど・・やっぱり資本の論理で無理ですかねぇ?タモリが東京初進出のライブをやったのも下北ロフトだったし、楽しかったですよ。小屋のおやじもお客も彼ら音楽家と一緒に新しい時代を作っているんだと言う共同作業という感覚があったし。初期のロフトの頃がいちばん楽しかった。 |
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