株式会社テイチクエンタテインメント
代表取締役社長 飯田久彦 氏
野球少年、九ちゃんと出会う

●まず、生い立ちからお聞きしたいのですが。
生まれも育ちも世田谷の松原です。下高井戸にある松沢小学校、松沢中学校と。昔は松沢村って呼ばれててね。2〜3歳の頃疎開してたので戦争の記憶はそんなにないんですけど、戦後で食糧難の時代はトマトなんかも畑入って食べたり、給食も脱脂粉乳で、そう言う時代でした。

兄弟は男3人と姉1人の長男でした。姉は小さい頃に嫁いじゃったから大体男3人で育った感じ。親父は白木屋ってデパートの呉服売場の出で、世田谷で呉服屋やってたけど、僕はそう言うの全然興味無くて、ずっと野球少年でした。どっちかっていうと悪ガキで、小学校〜中学校もずっと野球の選手になりたくて、明けても暮れても野球が好きだったですね。たまたま明大前に明治大学の野球のグラウンドがあったんですよ。そのころは嶋岡監督って有名な人がいてね。大洋にいた秋山さんとか土井さんとかっていう明治の選手もいて。野球を見に行っては破れたボールを貰ったりした想い出があります。六大学は明治が好きで、よく神宮へお弁当持って外野に見に行ってたんですけど、立教に長嶋さんがいてね。今でも長嶋監督のファンなんですけどその頃から長嶋好きだったんです。中学生の頃ですよ。だから、野球の選手になりたくて中学出て、高校選ぶときに神奈川に目を向けたんです。神奈川のほうが甲子園に出る率が東京より高いから。今は1000何百校あるんですけど、そのころは神奈川には500〜600校ぐらいしかなかったんですよ。それで神奈川の日大高校で野球をやろうと思って入学したら、たまたま坂本九さんが同級生でいたっていうのが業界に入るきっかけだったんです。
●九ちゃんと同級生だったんですか!
九ちゃんは2年ぐらいから学校サボっちゃジャズ喫茶まわりしてましたから。なんかきっかけがあったようです。高校に入ってからは野球部は元旦だけ休みで後はほとんど毎日野球の練習。もちろん勉強も適当にやりましたけど、午後からは野球に明け暮れた3年間でした。それで高校3年の時に夏の大会の予選で、柴田がいた法政二高が強くて負けて、僕らは7月の20何日で終わってしまったんで、1・2年に譲るわけです。それで髪の毛を伸ばし始めて、夏休みの終わりに坂本九さんが渋谷のテネシーっていうジャズ喫茶で歌ってるから見に行こうって九ちゃんとバンドやってた仲間に連れられてジャズ喫茶に行ったんですよ。その頃は夏だから学生服着てなくて、白いワイシャツだけですから入れたんですよ。タダで入れてくれたんだと思うな、九ちゃんが。その代わりお前ら立って見てろよみたいな。終わったら、次のジャズ喫茶に移るから楽器の運搬を手伝えってね。

BACK
NEXT

INDEX

▼野球少年、九ちゃんと出会う
バンドボーイ兼シンガー
歌手になりたかったわけではないけれど…
ついにレコード・デビュー!
裁ちばさみで切り開いたディレクターへの道
ディレクター奉公

"歌い手くずれ"の意地と誇り
もっとカバーがやりたいよね
猛反対されたピンクレディーの大ヒット
商品ではあっても中身はマインド
ビクターからテイチクへ
『孫』の大ヒット
すべては「出会い」と「人間関係」
たまにはカラオケで歌うこともありますよ
『チャコの海岸物語』誕生秘話
インペリアルレコードのスタートは『孫』の対極から
BACK


Copyright(C) 1998- F.B.Communications Inc. & Magnet Co.,Ltd. All rights reserved.
Contact info@musicman-net.com with question regarding this site.